シュタイナーノート102

可能な仮説


2004.12.29

	しかしいずれにせよ、ここに述べたオカルト的な観点を今日の生理学が
	「可能な仮説」と受け取ってくれれば、ここから興味ある観点を引き出す
	ことができるはずです。ですから次のように考えていただきたいのです。
	ーー「私なら見霊者の眼が捉えたものを、しばしば人がするように、こじ
	つけだとはとらずに、それを信じるのでも信じないのでもなく、ひとつの
	考え方として受け取るだろう。そして、その立場に立てば何が認識できる
	ようになるのかを調べるだろう。そして神秘学が述べていることを従来の
	生理学の方法によって、外からの観察によって追認できるかどうかを調べ
	るだろう」。
	(シュタイナー『オカルト生理学』ちくま学芸文庫/P71-72)
 
神秘学的な観点へのもっとも適切な姿勢というのは、
おそらくここに述べられているように、
そこで提示されているものを「可能な仮説」として受け取ることだろう。
 
それがいわゆる「常識」と反することであるとしても、
そのときには、その「常識」がどのような「可能な仮説」から
成立し得るのかということを同時に観察し、考察してみる必要がある。
そしてそのどちらがより総合的な観点から見て、
より説得的であるか、現実をよりよく説明できているかを問う。
 
デカルトのいうように、よくわからないものに対しては
中庸的な意味で「コモンセンス」を重視するというのは
とても大切な視点ではあって、
いちいち「常識の反対」をあまのじゃくのように
むやみに振りかざすのはあまり有益なことではない。
 
しかしとくに本質的な問題点に関しては、
少なくとも、たとえ「常識」に反していても、
「可能な仮説」として受け取ることのできる姿勢、
つまりまずは感情的・感覚的に反発しないようにして、
その問題がとらえようとするものを
しっかりと考えることのできる余裕を持つようにしなければならない。
 
シュタイナーの神秘学的な著作・講義集を読み進めていて、
いつも感じることは、そこで提示されている「可能な仮説」が
いかにそれまでわからなかったこと、わかりにくかったことを
総合的な意味で説明されているということである。
 
『神秘学概論』をはじめとする著作や講義集などでも述べられているように、
神秘学で述べられている内容を自分で霊視したりできなくても、
それを「可能な仮説」として検討することができるのだし、
それが正当になさられるならば、そこで示唆されていることが
いかに重要な視点であるかは自ずと知られるはずである。
それは同時に、似て非なるオカルト的なまやかしとの違いを示してもいる。
 
ともあれ、まずは自分の認識様態を検討しなおして見ることが前提となる。
自分の目の上の梁を取り除いた上でなければ、
どんなことも適切に観察、考察することはできなくなるのだから。
 
 

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