シュタイナーノート101

モルゲンシュテルン


2004.11.12

	 こうして1908年が来たーー
	 
	  そのときわたしは、極端な窮境のなかで、きみという他者に出逢った!
	  きみと一つになり、わたしは新たな勇気を得た。
	  わたしは新たにきみとともに歩みはじめた、
	  すると見よ、運命はわたしたちに好意を示した。
	  わたしたちは一本の小径を見つけた、神殿のありかまで
	  明らかにそして孤独に通じている小径を。
	  上りはけわしい、けれどわたしたちは共にあえてした。
	  そして今日も手に手を取って助け合う……
 
	 他者とは、わたしの生を今後とも分かってくれるきみだ。小径とは、今日ルドル
	フ・シュタイナーにより独特な仕方でわたしたちに伝えられている人智学的認識の
	道だ。
	 この人のうちには偉大な霊的探求者が生きていて、「真理の奉仕にまるごと支え
	られた生」をわたしたちの目の前に、わたしたちのために体現している。
	 彼を前にしては、いかに独立不羈の人といえども新たに思慮し自己改造するがよ
	かろう。彼を前にしては、生を真理の犠牲に供せよーーなる言葉をつねに範として
	やまぬ人なら、かならずやそうしらのだ。(1913年)
 
	(クリスティアン・モルゲンシュテルン「自伝的ノート」より
	クリスティアン・モルゲンシュテルン『絞首台の歌』種村季弘訳/書肆山田
	2003年3月10日発行 所収/P234-236)
 
モルゲンシュテルンはシュタイナーの親友であった。
1914年3月31日、モルゲンシュテルンはイタリアのメラノで没し、
4月4日バーゼルで荼毘に付される。
 
そのすぐ後、1914年の4月6日から、
シュタイナーはウィーンで連続講義を行っている。
『死後の生活』(イザラ書房)である。
 
その『死後の生活』の「訳者あとがき」(高橋巌)にこうある。
 
	親友の死はシュタイナーに大きな悲しみをもたらしたが、それ以降、幽明境を異に
	してシュタイナーとモルゲンシュテルンの間に一層深い霊的な結びつきが生じ、シ	ュタイナーのその後の活動に大きな影響を与え続けた。そのことはシュ 
タイナー自
	身が繰り返して語っているところである。
 
ちなみに、そんななかで、4月1日には、第一次ゲーテアヌムの上棟式が行われている。
 
さて、以前から気になっていたモルゲンシュテルン『絞首台の歌』を読む機会があり、
シュタイナーとの深い関係が記されている「自伝的ノート」も
そのなかに収められていたのでここに引用しておくことにした。
 
モルゲンシュテルンのことは、学生時代、
ドイツ語を勉強していたころから
いわゆる言語遊戯というかライトバース的な詩人として知ってはいたのだけれど、
そのころはシュタイナーのこともまったく知らず、
またモルゲンシュテルンについても詳しくは知らずにいた。
 
こうしてシュタイナーについて知るようになり、
そしてその言語遊戯の詩人がシュタイナーの親友であったことを知ると
そのモルゲンシュテルンという人のことをもっと知りたくなるけれど
日本で紹介されることは少ない。
ドイツ詩のアンソロジーに入っていて
そこで少しふれられるくらいだろうか。
たとえば、岩波文庫の『ドイツ名詩選』のなかにも
「えりえぬこと」という詩が紹介され
「グロテスクで風刺のこもった幻想的な詩で有名だが、
反面、神の探求に身を委ねる瞑想的・宗教的な面をももっていた」と紹介されている。
 
さて、この『絞首台の歌』を訳した種村季弘氏も亡くなってしまった。
学生時代、渋澤龍彦とこの種村季弘というのは
ぼくの本棚の一角を占めていた人たちである。
この『絞首台の歌』の解説には、このように記されている。
 
	 『絞首台の歌』とその後のニーチェ、マウトナーとの格闘時代、懐疑の時期の後、
	『自伝的ノート』に記されているように、彼はヨハネ福音書に啓示を受けてからや
	がて急速にルドルフ・シュタイナーに傾倒して行く。言語懐疑から言語遊戯に転回
	した詩人は、ふたたび言語神秘主義に再転向するのだ。モルゲンシュテルンにとっ
	て、これ以後、これまでの懐疑はすべて神秘主義に至るための前段階と見なされ、
	詩人はまっしぐらにシュタイナー思想にのめりこんで行く。
	 モルゲンシュテルンとシュタイナー思想との関係についてはこれ以上ここで深入
	りしたくない。晩年のモルゲンシュテルンの身近にいたシュネイタリアン(シュタ
	イナーその人ではない)たちが、詩人の死後、全集の編集に際してシュタイナー思
	想に都合の良いように作品の加減乗除の操作を行った形跡がある(アルフレート・
	リーデ『遊戯としての文学』)ともいうからだ。
	(種村季弘「懐疑・遊戯・沈黙ーーCh.モルゲンシュテルンとグロテスク詩」より
	同上/P279-280)
 
錬金術等についても翻訳等を多くのこしている種村季弘だが、
おそらくシュタイナーについては「神秘主義」としてしか
とらえることができなかったのだろう。
しかしここに書かれているように、シュタイナーについてよりは、
そのシュネイタリアンのような人たちにはどこか反発を感じていたのだろう。
「遊戯」の好きな種村季弘にはそういう
「都合の良いように作品の加減乗除の操作を行」うようなことは
許し難いことだっただろうし
それ以前に、モルゲンシュテルンが「懐疑」「遊戯」から
「神秘主義」へと至るようなことも
そんなに好意的には受け止めていないようである。
 
「シュネイタリアン」のような人たちには
逆におそらくは「懐疑」や「遊戯」が理解できないというか
許し難い部分があったのではないか。
しかし人智学・精神科学はおそらくは、
そうした「懐疑」や「遊戯」というプロセスをも内包しているというか、
そういうプロセスがあってこそはじめて成立するのではないか。
そんなふうにぼくとしては受け止めたいと思っている。
その意味でもモルゲンシュテルンがシュタイナーの親友であったということは
とても意味深く思われる。
「懐疑」や「遊戯」のない人智学・精神科学は
硬直化し教条化しやすいのではないだろうか。
 

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