ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講


 1920年 3月25日 ドルナハ

 今回の考察において、病理学が治療のなかに浸透し、両者の間に橋が架けられるべきあの特殊な領域へと、私たちがますます肉薄していくことにより、いわば治療処置にとっての一種の理想として示すことは可能でもそのままでは至る所で活用することはできないありとあらゆる事柄に言及することが必要となってきます。とは言えやはり、患者を治療するにあたって考慮されるべきあらゆることを概観しようとすれば、個々の場合からあれこれのことを引き出すことができるでしょうし、少なくとも、断片的な診断結果からでも病気についていかに評価すればよいかを知ることができるでしょう。

 とりわけ不可欠なのは、きわめて特殊な場合であっても、治療処置にとっては、目の前にいる人間の全体像を認識するということがいかに重要であるかということに目を向けることです。この人間の全体像の認識は、本来常に生の最も重要な契機にまで至るべきものなのです。医療関係のかたがたが私を信頼してくださって、あれこれお話ししたこともあるのですが、そういうときしばしば驚かされたのは、たとえば私がちょっと話した後すぐに、その患者さんはいったい何歳ですか、とたずねると、その人はそれについて正しい情報を与えることができなかったこと、すなわち、当の患者が何歳なのか説明できなかったことです。これは明日以降見ていくことですが、患者の年齢についてかなり正確に知っておくということは、最も本質的なことのひとつなのです。なぜなら、治療はかなりの程度患者の年齢に左右されるからです。そして一昨日ここである種の事柄について、それがある場合には非常に良く効き、別の場合には効き目がないという例が引合に出されましたが(☆1)、当の患者の年齢はこの効き目がないこととどう関係しているのか、という問いは、こういう発言にきわめて近いところにあります。ーー年齢というものの作用の仕方について、これは治療するにあたって何にも増して厳密に取りあげられねばならないことなのです。        

 さらに重要なのは次のようなことです。当の患者がそもそもどのような体格であるのか、つまり背が低くてずんぐりしているのか、それとも背が高くてひょろっとしているのか、ということを常に正確に見定めておく必要があるのです。すでにこの、背が低くてずんぐりしていることと背が高くてひょろっとしていることから推定して、私たちが人間におけるエーテル体と呼んでいるものがどのような力を持っているのかを見て取ることが大きな意味を持っているのです。これはやむをえないことなのですがーーこれについては私もいろいろと考え込んだのですーー、皆さんはおそらくこういう、人間の実在の一部をともかくも表している表現、エーテル体云々といった表現を用いることはまったくお望みでないでしょう。こういう表現を人智学者ではない人々にとっても多少好もしい表現によって言い換えることも可能かと思いますが、それができるのは最後になってからかもしれません。今のところは、いっそう理解を深めるために、やはりこういう表現を用いることが必要であるという立場を堅持しておこうと思います。さてこのエーテル体の作用の強度と申しますか、そういうものは、当の人物がどのような体格であるかということから判定できるのです。けれども、できる限り問い合わせて確認しておくべきはーー先に申しましたように、私としてはすべてを引合に出したいのですが、端的にデータを得られないため、すべてを考慮することは常に可能であるとは限りません。けれどもあらゆることについて知るということは良いことですーーとりわけ、当の患者が若いときにゆっくり成長したか、速く成長したか、すなわち、長い間小さいままだったか、比較的幼い時期にもう背丈が伸びてしまってその後は成長が遅れたかどうか、ということです。こういう事柄はすべて、物質体に対する、エーテル体すなわち人間の機能的な発現の関係と私たちが呼ぶことのできるものを示しています。そしてこれは、人間とその薬との関係を知ろうとすれば、考慮されねばならないことなのです。

 さらに必要なのは、物質体とエーテル体の、人間の本性のより高次の構成要素との関係、すなわち私たちがアストラル体と呼ぶ、本来魂的なものと、私たちが自我[Ich]と呼ぶ本来霊的なものとの関係を認識することです。これを患者から見て取ることが必要なのです。ですからたとえば、夢をよく見るかあまり見ないかといった質問をその患者にすることもやむを得ません。ある患者が夢をよく見るのなら、それは彼の構成全体にとって非常に重要なことです。なぜならそれは、アストラル体と自我が、それ自身の活動を展開する傾向を持っていること、つまり物質体にはそれほど入り込まずそれほど密接に関わっていないこと、そのため本来の人間的ー魂的な形成力が人間の器官組織のなかに流れ込んでいないことを明示するものだからです。

 さらに確認しておくべきことは、あまり愉快でないことかもしれませんが、当の人物が活動的で勤勉なのか、それとも怠惰な傾向があるのか、ということです。と申しますのも、怠惰な傾向のある人は、アストラル体と自我においては非常に内的な活動性を有しているからです。理屈に合わないように思われるかもしれませんが、この活動性は意識されておらず、無意識のものなのです。この活動性が意識されていないために、当の人物は、意識においてはどうしても勤勉ではなく、大体において怠惰なのです。なぜならば、私がここで怠惰の反対物と見なしているものは、その人の高次の人間をもって低次の人間に介入していくことのできる有機的能力、つまり、その人のアストラル体と自我から、物質体とエーテル体へと、活動力を実際に導いていく能力のことだからです。そして怠惰な人の場合、この能力が非常に少ないのです。怠惰な人とは本来、精神科学的に見れば、眠っている人なのです。

 続いて確認しておくべきことは、当の患者が近視であるか遠視であるかということです。近視の人というのは、いずれにせよその自我とアストラル体が物質体に対してある種抑制されています。近視というのはまさしく、その人の霊的ー魂的なものが、肉体的ー物質的なものに介入しようとしていない、ということの、最も重要な徴候のひとつなのです。

 さらに、将来実施できる可能性があり、病気の治療処置にとってきわめて重要と思われることを指摘しておきたいと思います。私が思いますに、これは社会的な感情がもっと個々の職分にも浸透していけば、何らかの実践的な意味を獲得できることなのです。これはつまり、歯科医が、歯の組織や消化組織、およびそれに関連するすべてのことに関する知識を、次のようなやりかたで利用しつくすとすれば、きわめて意味のあることだろうということですーー勿論そのために当の患者を味方にしなければなりませんが、これは今申しましたように、いくらか社会的感情があれば達成できるかもしれませんーー。すなわち歯科医が治療処置のたびに、いわば一種の概略図を患者にわたすことによってその知識を活用できれば良いのです。その概略図には、歯の成長に関するすべての活動をどう診断したか、早い時期に齲(う)歯[Zahnkaries 齲触症、齲歯、虫歯]への傾向があるかどうか、比較的高年齢まで歯が良く維持されているかどうか、といったことを記録するわけです。これは、明日以降見ていきますように、人間の生体組織全体を判定するのにきわめて意味のあることです。そして個々の病気の症例を治療処置していくべき医師が、こういう指標、言うなれば人間の健康の指標を、歯の状態から見て取るようになれば、これは医師にとってきわめて重要な拠り所となるでしょう。

 さらには、患者の、こう言ってよろしければ身体的な共感と反感についても知っておくことがとても重要でしょう。とりわけ重要なのは、治療されるべき人が、たとえば塩分をむやみに欲するかあるいは他のものを欲しがるかどうか、確認しておくことです。当の人物がどのような食品を特に欲するか、聞き出しておかなければならないでしょう。その人が塩性のもの全般を欲するならば、その人にあっては、自我とアストラル体が物質体、エーテル体と強く結びついていること、いわば霊的ー魂的なものと物質的ー肉体的なものとがきわめて強い親和性を示していることがわかります。同様に、このような強い親和性を裏書きするものは、外的な機械的経過、たとえば体を急速に回転させるといったことによって引き起こされる、眩暈の発作です。つまりその人が、体を機械的に運動させるときに眩暈の発作を起こしやすいかどうかを確認しておかねばならないのです。

 そしてさらに常に調べておくべきことは、たぶん一般的にかなりよく知られたことですが、分泌の障害、すなわち人間の腺の活動全体についてです。なぜなら、分泌障害があるところには常に、自我およびアストラル体と、エーテル体および物質体との結合にも障害があるからです。

 以上私は皆さんに、患者に対するときに根本的にまずもって知っておかなくてはならないことをひとつひとつ挙げて参りました。個別的に取り出されはしたのですが、当の事柄が身体の構成そのものに関わっている限り、これらのことがどういう方向に向かっているのか、皆さんにはおわかりだろうと思います。生活習慣、つまりは衛生的な空気を呼吸しているのか、不衛生な空気を呼吸しているのかといった可能性等を、聞き出しておくべきであるといったことについても、だんだんとお話ししていこうと思います。これは個々の問題を議論するときにもっと考察できるでしょう。さてこのようにして、治療すべき患者がどのような性質を有しているのかについて、まずは一種の洞察を得ることができるでしょう。なぜなら、何らかの薬をどのように混合すべきかを個別的に確実にすることは、おそらくこういうことを知っているときにのみ可能だからです。

 さて、これはすでに先日来の個々の考察から出てくることではありますが、まずは一般的に、人間と人間の外部の世界全体との間には内的な親和性があるということを指摘しておきたいと思います。さしあたり抽象的に述べられているとは言え、精神科学的観点からしばしば言われることは、人間は進化していくうちにその他の世界を自らのうちから外へ出していき、そのため人間の外部にあるものは、人間自身の本性とある種の親和性を持つということです。こういう関係をこのように抽象的に宣言することに対して、私たちは、この親和性をまったく個別的に器官の治療に際して繰り返し指摘していくべきでしょう。けれどもさしあたって特に明確にしておきたいことは、そもそも人間と人間の外部の自然との治療関係は何に基づいているのかということです。

 皆さんもご存知のように、この分野においては論争が絶えず、私たちがこれから先もっと厳密に語っていく治療法も、激しい論争の渦中にあります。これらの論争のうちとりわけよく知られているのが、ホメオパシー志向の医師たちと、アロパシー志向の医師たちとの間の論争です。さて、精神科学としてはどのようにこの論争に介入しようというのか、これが皆さんの興味を引くことかもしれません。けれども、この介入というのはーー今日はこのことについてさしあたり一般的なことをお話しし、個々のことがらを扱う際にもっと詳しく立ち入っていきたいと思いますーー、本来かなり特殊なものです。と申しますのも、精神科学に判明しているものにとって、その根本において、本来アロパシー療法家というものは存在しないからです。実際のところ、アロパシー療法家というものは存在しないのです。なぜなら、アロパシー的に薬として処方されたものであっても、生体組織にあっては、ホメオパシーのプロセスをたどり、実際にこのホメオパシープロセスによってのみ癒していくからです。したがっていかなるアロパシー療法家といえども本来は、自身の生体組織がホメオパシーをすることによって、アロパシー的な処置の支えとしているわけです。生体組織は、アロパシー療法家が行わないこと、つまり薬の個々の部分の関係の止揚ということをそもそも実行しているのです。ですからやはり、生体組織からこういった類のホメオパシーをすることを取り除くか否かということについてはかなりの差異があります。これは端的に、生体組織における治癒のプロセスは、薬がホメオパシー化されるときに徐々に現れてくる状態とおそらく関係しているためです。生体組織にとってはしかし、外界の物体がふつう有しているものは自らと対立するものであり、生体組織と外界の物体とは治癒上の親和性がないために、生体組織は外界の物体を異物として自分のなかに取り入れることになるので、アロパシー的な状態の薬を付与するときに発現する力をすべて生体組織に負わせると、生体組織は結局おそろしく負担をかけられて支障をきたしてしまうのです。物体からこのホメオパシー化を取り除くことが不可能な場合について、特にもう少しお話ししていくつもりです。

 さて、おわかりのようにホメオパシーとは根本的に言って、本来ある程度自然そのものから非常に注意深くひそかに学びとられてきたものなのです。たとえその際、これについてもさらに見ていきますが、ファナティスムが意味ありげな飛躍をしてしまったことがあったにせよ、そうされてきたのです。しかしここで重要なのは、人間と人間の外部の環境との個々の関係のためにいかに道を見出すことができるか、ということを認識していくことです。しかも私たちはここで、すでに昨日別の場合に申しましたように、古代の医学的著作に思慮深く沈潜することが役立つこともあるにせよ、むろん古代の医師たちが発言していたことを単にそのまま真似ることはできず、たとえば現代科学のあらゆる手段をもって、この人間と人間外部の環境との相互関係に入り込んでいくことに関わり合わねばならないのです。ここでまず確認しておくべきことは、物質の化学的な調査、つまり個々の物質が実験室で開示するもののなかに入り込んでいくようなことによっては、あまり多くのことは成し遂げられない、ということです。すでに示唆いたしましたように、本来こういう顕微鏡による観察をーーこれは実際一種の顕微鏡観察法なのですーー、巨視的な観察、つまり宇宙そのものの観察から生ずるものに換えていかなければならないのです。

 きょうはまず、皆さんに意味深い配列をお目にかけましょう。この配列は、人間外部の自然は一種の三分節状態において、三分節化された人間とどのように対応しているのか、ということをいわば私たちに提示してくれるものです。ここでとりわけ私たちが目を向けなければならないのは、可溶性を示すすべてのものです。おわかりでしょうか、可溶性というのはすなわち、この地球という惑星の進化過程においてとりわけ大きな意味を有していた最後の特性なのです。地球において固体として分離されたものは、実際その大部分が根本においては宇宙的な溶解プロセスに還元され得るのです。この宇宙的溶解プロセスは克服され、その生命を奪って固体の部分を沈殿させたのです。しかしながら、単に沈殿物の機械的な堆積を想定したり、地学や地質学にこのことの基礎付けを求めたりするだけでは、それは皮相的というものです。地球形成、つまりそもそも固体的部分の地球体への組み込みということがすでにもう、本質的に、溶解(状態)から自らを結晶化させてくること、あるいは溶解(状態)から自らを沈殿させてくること、という特殊なケースなのです。ですから溶解プロセスのなかに生きているものというのは、それが外的自然、つまり人間の外部の自然において実現される限り、人間が(かつて)自らのうちから外へと出したものでもある、と言うことができるのです。つまり外部における溶解に際しては、人間が(かつて)自らから出した何かが起こっているわけです。そういうわけで、人間外部の宇宙における溶解プロセスが人間の生体組織の内的な経過とどのような関係にあるのかを研究することが重要でしょう。

 私が言及いたしました基本的に重要なことは、霊的ー魂的なものと肉体的ーエーテル的なものがあまりに強く結びついているある種の人たちは、器官的に塩分に対して渇いているあるいは飢えているということ、つまりそういう人たちは、その生体組織のなかで塩の沈殿プロセスを逆行させようとしている、すなわち、彼らはこの地球形成プロセスを破棄しようとしていて、根本において塩というものを、地球が固体化したとき以前の地球形成状態へと後退させようとしている、ということです。こういう事柄に目を向けることがとりわけ大切なのです。そうすることによって真に人間の生体組織と人間外部の自然との関係を洞察することができるのです。人間の本性そのもののなかに、外界において実現されているある種のプロセスを逆行させ、それに抵抗しようとする一種の器官的な要求がある、と言うことができます。昨日申しましたように、人間の脳を支えるために浮力が生じて重力に抵抗するということすら起こっているのですから。このように総じて抵抗する傾向が存在しているのです。

 さて、地球形成プロセスにまず抵抗するというのは、これはいったいどういうことなのでしょうか。それが意味しているのは根本的に、下部の人間を霊的ー魂的なものから自由にすること、霊的ー魂的なものを下部の人間からまずはたとえば上部の人間のなかへと駆逐することにほかなりません。つまり、塩への渇望が存在している場合に必ず、この塩への渇望が私たちに知らしめることは、下部人間が何らかのしかたで、下部における霊的ー魂的なものの強すぎる働きから自由になろうとしていること、下部人間はこの霊的ー魂的なものの働きをいわば上部人間に流出させようとしている、ということなのです。

 下部人間に変調がある、それとわかるような変調がある、と想定してみてください。この変調を知るための手段と、この変調に起因する個々の病気については後日見ていきます。(この変調に対して)何をすることができるのでしょうか。

 さて、ここでひとつ考察をさしはさみたいと思います。これは、薬の使い方においてある種一面的になりがちな人々にとって有意義なことかもしれません。ある種の人々の場合は、鉱物薬に対する一種の嫌悪といったものも見られます。こういう嫌悪は正当なものではありません。なぜなら、これから見ていきますように、純粋な植物薬というものは、何と言ってもやはり、あるまったく特定の範囲内でのみその効力を発揮することができるのであって、もっと深刻な場合となると、鉱物薬が大きな意味を持ってくるからです。そこで皆さんにお願いしたいのですが、私がこの原則的な考察に際して鉱物薬から始めてもお気を悪くなさらないでほしいのです。鉱物薬とは言ってもこれはいわば、この鉱物薬の効力を、生命に、つまり器官の生命に組み込むことなのです。とりわけ、人間の下腹部の、上体との関係におけるある種の治療処置のしかたについて、非常に啓発を得ることができるのは、皆さんが牡蛎を研究されるときでしょう。牡蛎というものはその殻の形成においてきわめて興味深いものです。と申しますのも、おわかりでしょうか、牡蛎というものは、その炭酸石灰の外殻を、まさに内から外へと追い出してくるわけですから。皆さんがーーさてここで探究に際して精神科学が助けにならなければなりませんーー牡蛎を精神科学的に探究されるなら、この牡蛎というものは、なるほど動物の系列のなかでは非常に下等な生き物であるけれども、宇宙全体においては比較的高い位置を占めているのだ、ということを承認されるようになるでしょう。人間が自分の思考として自らのうちに担っているものが牡蛎から分離される、ということによって、牡蛎はこのような位置を占めているのです。殻を形成して内から外へと導いていく力が示しているのは、いわば、それが器官的な成長と結びつけられたとすれば、牡蛎を非常に賢くしたであろうもの、牡蛎をまさしく非常に高等な動物にしたであろうものが、どのようにして牡蛎から他方へ導かれたか、という道すじなのです。こうして皆さんは、この牡蛎の殻の発生をてがかりに、炭酸石灰[kohlensaurer Kalk]すなわちカルカレア・カルボニカ[Calcarea carbonica]の働き、つまりこの、強すぎる霊的ー魂的活動を生体組織から引き出して導いていく働きを、まぎれもなく、いわば手に取るように見ることができるのです。

 さて、下腹部に過剰な霊的ー魂的活動があって、それが、この病気の形式についてもこれから見ていきますが、特定の病気の形式をとって現れてくることもわかったときに、皆さんが手を伸ばさねばならない薬、この薬を皆さんは、炭酸石灰の持つ内から外へ作用する物質という秘密に満ちた力と申しますか、この力を通じて、牡蛎の殻やそれに類するもののおかげで得ることができるのです。つまり治療処置において本質的なことはおそらく、この内から外へ駆逐すること[Von-innen-nach-aussen-Treiben]に何らかの治癒力があることを明確に知っておくことに基づいているのです。よろしいでしょうか、カルカレア・カルボニカのような薬と結びついているものや、それに似た薬に関係するものがすべて合理的に研究され得るのは、以上のような関係においてこれを見るときのみなのです。

 さて、炭酸石灰の力のなかにあるものに対して、その対極のように相対しているのはつまり、たとえば燐の力のなかにあるすべてのものです。ーー私の用いる表現は事実その真の意味において、今日しばしば科学として通用しているものより非科学的であるなどということはないのですがーー塩性のものがすべていわばその環境に身をささげるようにふるまうとき、その理由は、あらゆる塩的なもの(塩的性質を持つもの)は、計測できないもの、光やその他の計測できないものの内的な作用から、対応する物質が露出させられ、解放されることによって生ずるから、ということなのです。いわば塩的であるものはすべて、その生成過程を通じて、計測できないものを、それを内的に所有しないように、自らから突き放したわけです。

 燐の場合は事情はまったく逆となります。ですから古代における先祖伝来の認識が、この燐を光の担い手とみなしたのは、実際まったく正当なのです。なぜなら、燐が、計測できないもの、つまり光を実際に担っていることを、古代の認識は正確に見抜いていたからです。塩が自分から遠ざけたものを、この燐は自らのなかに担っているのです。つまり塩の対極として相対している物質は、いわば計測できないもの、とりわけ光、さらには他の計測できないもの、つまり熱などを、内面化して、それを自らの内的特性にするような物質なのです。燐のなかに存在するもの、あるいは治癒過程に関して燐に類似しているものはすべてこういう事情に基づいています。したがって、計測できないものを内面化する燐は、とりわけアストラル体と自我が正しく人間に接近できないとき、それらを人間に押しもどすのに適しているのです。

 ですからある患者が病気でーー個々の病気についてはさらにあとでお話ししていきますーー、この患者がつまり、頻繁な夢に悩まされていること、すなわち、アストラル体が物質体から離れて、独自の活動をする傾向にあることがわかったなら、またさらに、その患者がたとえば、器官的に周辺部分において炎症傾向があること、これもまたアストラル体と自我がきちんと物質体のなかに位置していないことを示すものですが、そういうことがわかったなら、皆さんは、この人間のアストラル体と自我をもっと物質体にかかわるようにさせるために、燐が計測できないものをとどめておく力を使用することができるのです。穏やかでない睡眠生活をおくっている人の場合、きわめてさまざまな病状に対して、この燐を用いることができるでしょう。なぜなら、燐は、自我とアストラル体とをしかるべきやりかたで物質体とエーテル体のなかに引き戻すからです。

 このように、燐的なものと塩的なものは、ある意味で互いに対極的に相対しているのです。そして皆さんに気づいていただきたいことは、個々の名称、つまり現代の化学によって個々の物質に与えられているような名称よりはむしろ、これらの物質が宇宙全体のプロセスのなかにどのように入り込んでいるのか、ということに注意が向けられねばならないということです。つまりさらにこれから見ていきますが、燐に似た作用をする物質における燐であっても薬として使用できるのです。

 よろしいでしょうか、以上のことによって皆さんは、外的な自然における二つの互いに相対する状態、すなわち、塩的に作用するものと燐的に作用するものとを確定したわけです。この両者の中間に位置するのは水銀的に作用するものです。人間というものが、神経ー感覚存在、循環存在、新陳代謝存在という三分節化された存在であるように、つまり、この循環存在が新陳代謝と神経ー感覚活動の間にあって両者を仲介しているように、外的自然においては、塩的なものほど強く自らを放棄せず、かと言って計測できないものを強く自分のなかで内面化するわけでもなく、いわばこの両方の働きの間で釣り合いを保っているものが存在するのですが、そういうものはすべて、自ら水滴形を形成しようとすることによって、仲介しているのです。と申しますのも根本において、水銀的なもの[Merkuriale]は常に、その内的な力の連関において水滴形になる傾向を持っているからです。この水銀的なものと言う場合に重要なのは、今日水銀[Quecksilber]とみなされている物質を水銀的なものと呼ぶことではなく、塩類の融解(してしまう傾向)と、計測できないものを自らのうちに引き寄せること、とどめておくこととの間で釣り合いをとっている力の連関なのです。つまり、水銀的なものすべてのなかにまさに明確に含まれている力の状態を研究することが肝要なのです。したがってこれからおわかりになるでしょうが、この水銀的なものは、燐的なものが適している働きと、塩的なものが適している働きとの間に、平衡をもたらすことを目指しているものに、本質的に関わっているのです。私がたった今申しましたことと生体組織における作用が矛盾していないということは、梅毒やそれに類する疾病について特別にお話しする時にさらに見ていくことになります。

 さて以上、燐的なもの、水銀的なもの、塩的なものについてお話しすることによって、私は皆さんに、鉱物的なもののなかからいわば特に明瞭な類型を提示いたしました。むろんもうおわかりでしょうが、塩的なものにおいてすでに、牡蛎の殻の形成のなかに存在し、その背後に潜んでいる器官プロセスについて語られねばならないのです。このプロセスは、ある意味においては、計測できないものが燐のなかに濃縮されるときにも存在するのです。けれどもその場合はすべてが内面化されるので、このプロセスは外に向かってはそれほど明瞭に顕現できないのです。さて今度は、このように典型的に外界において形成されているものを見ることから、いわば別の時期に人間が自らから分離したもの、つまり植物へと進んでいくことになります。                  

 植物的なものは、すでに昨日別の観点から見てきましたように、人間の生体組織における働きとして存在しているものと、いわば対照をなしています。けれども植物そのものにおいても明白に三つの部分を区別することができます。この三つの部分の区別というのは、根として地中に向かって拡がっていくものを見る一方で、種、実、花のなかで伸びていくもの、上方へ向かうものを見るときに、とりわけ明確に皆さんの心に浮かんでくると思います。すでに外的な方向性と申しますか、そういうものにおいて、植物的なものと人間的なもののこのような違いをーーこの場合動物的なものは含めませんーー見ることができるのです。実際ここにおいてすでに、きわめて重要で意味深いものが存在しているのです。植物はその根を地中に沈め、その花を、すなわち生殖器官を上に伸ばしています。人間は宇宙のなかでのその姿勢に関してもこれと完全に反対になっています。つまり、人間はその頭部をいわば上に向かって根付かせ、その生殖器官を下方に向けていて、これは植物と全く逆です。したがって、皆さんが人間に関して、上に向かって根を張り、下に向かって花を、生殖器官を開花させている植物を、一つのイメージとして眼前に描くことも、あながち無意味なことではないのです。植物的なものは特殊な形式において、まさにこのように人間のなかに組み込まれているのです。さらに今度は人間と動物の違いを示す重要な指標となるのは、動物の場合、この(動物に)組み込まれた植物が、たいてい水平に横たわっていて、植物の方向と直角をなしているけれども、人間は、その宇宙のなかでの姿勢を、植物に対して完全に転回、と申しますか、百八十度転回させたのだということです。これは、そもそも人間と外界との関連を観察すれば見出すことのできる最も啓発的なことのひとつです。そして医学研究者の皆さんがこういうマクロコスモス的な事柄にもっと立ち入ってくだされば、たとえば細胞において作用している諸力についても、顕微鏡で観察するよりはもっと多くのことを見出せると思うのです。なぜなら、やはり細胞において作用している最も重要な諸力はーーその存在が植物であるか、動物であるか、人間であるかによって違いはありますがーー、マクロコスモス的なもののなかに観察され得るので、顕微鏡で観察しても実際のところほとんど得るところはないからです。人間の細胞をもっと良く研究できるのは、垂直に上昇したり下降したりするものと、釣り合いを保って横たわっているものとの間の相互作用を研究するときです。マクロコスモスにおいて研究するべきこういう諸力は、根本において、このマクロコスモス的な作用の写像に他なりません。

 さて皆さんが地球の植物存在を観察されるときは、何よりもまして、通常そうされているようなやりかたでこの植物存在を見る必要はありません。つまり、地球上を通って行って、次から次へと植物を観察して、それらを詳細に調べ、これらの植物を一つの図式のなかに組み込むべく、二分化、あるいは三分化された名称を考え出す、というふうに観察するのではなく、皆さんは、地球全体がひとつの存在であり、ちょうど皆さんの髪の毛が皆さんの生体組織の一部であるようにーーなるほど髪の毛はどれも似たようなもので、植物の方は互いに異なっているので、少なくともある意味ではあてはまらないのですがーー、植物界全体も、やはり地球の生体組織の一部である、ということを考慮に入れておかなくてはならないのです。皆さんは、髪の毛一本一本をそれ自体ひとつの生体組織として観察できないように、個々の植物をそれ自体独立してあるものとしては観察できません。植物がさまざまに異なっているのは、地球が他の宇宙と相互作用しつつ、さまざまな方向へ力を展開させ、それによって植物がさまざまに組織化されることに基づいています。けれども、あらゆる植物成長の生命の根底には、統一的な地球有機体組織というものがあるのです。したがってある種の事柄に注意を向けるのは特別重要なことです。皆さんが、そうですね、キノコを観察なさって、最初におわかりになることは、このキノコにとって、地球そのものが一種の生息地、一種の母体である、ということでしょう。さらにそれより高度な、草のような植物に移ると、皆さんは、ここでもやはり地球は一種の母体であるけれども、地球外的なものがすでにこの草のような植物にある種の影響を与えているということ、つまり、光やその他のものが、花や葉などの形成においても影響を与えていることがおわかりになるでしょう。けれどもとりわけ興味深いことは、皆さんが、樹というものに注意を向けてごらんになればおわかりになることです。つまり、樹幹の形成が樹を樹齢何十年もの植物にしているわけですが、この幹の形成のなかに、地面の上に直接生えている植物にとってはふつう地球全体であるものが継続して存在している、ということです。なぜなら、よろしいでしょうか、これは次のように思い浮かべていただかなくてはなりません。つまり、ここに地球があると考えてください。この地球から植物が生え出ています。そして私たちはこの地球そのもののなかに、この植物の成長の根底にあって、宇宙から流れ込んでくるものと相互作用しつ現れてくる力を探究することができます。けれども樹が成長するとき、地球はこういうふうにーーこれから申しますことにあまりショックを受けないようお願いいたします、これは本当のことなのですからーー、以前は地球から直接植物のなかに流れ込んでいたものの上にある意味でかぶさっていくのです。これが幹のなかに入り込みます。つまるところ幹というものはすべて地球の瘤なのです。こういうふうに考察されないのは、ひとえに今日の実に忌まわしい唯物主義的な想定に起因しています、人々は地球を単に鉱物の複合体だと考えていて、こういう鉱物的地球などというのは不可能な想定なのだという方向に前進する気配もないのです。この地球は、鉱物的なものを分離することのほかに、植物的なもののなかへ突き進んでいく力を、自らのうちに有しています。これがまくりあげられて幹となるのです。幹においてさらに成長するもの、これは、幹というものに関して、草のような下等な植物において地面に直接生えているものと、比較されねばなりません。私が申し上げたいのは、草のような下等な植物にとっては地球それ自体が幹であり、花や種子の器官が幹に付いている植物は自ら特別の幹を作り出しているということです。このことから、私が、樹から花を摘むか、草のような植物から花を摘むかでは、ある種の違いがあるということがおわかりになるでしょう。

 さらにこの観点から、植物における寄生植物形成、とくにヤドリギの形成にご注目ください。これは、ふつうはまだ植物と組織的に結びついたままのものですが、花や種子を担う器官が、外的な分泌のように、ひとつの経過そのもののように、幹に付いているのです。したがって皆さんは、通常は花や種子の形成のなかにあるものが、地球の力のある種の分離と結びついて上昇していくようすを、ヤドリギのなかに見なければならないのです。いわば植物のなかの地球的でないものが、まさにヤドリギの形成において解放されるわけです。ですから私たちは、地球から上昇しようとしているもの、地球外的なものと相互作用しているものが、花と種子の形成において、徐々に地球から自らを分離していくのを見、ヤドリギの形成において、とりわけ強力に自らを個性化する解放に至るのを見るのです。

 さてこれを、植物における形成として皆さんに知覚されているものと結びつけておくならば、皆さんはおそらく次のようにおっしゃるでしょう。つまり植物界に関しては、植物がいっそう根の形成に向かう傾向に応じて、すなわち、根の形成のなかに優先的にその植物の成長関係が現れていて、小さいか、未発達な花形成を示している、その度合いに応じて、かなりの違いがあるにちがいない、と。そういう植物は、より地球的なものに向かう傾向があります。さらに、この地球的なものから自らを解放している植物は、まさに種子形成、花形成へと上昇する植物であり、とりわけ、植物界において寄生植物として通用しているような植物です。けれども植物には、そのいずれの器官をも、いわばもっとも突出したものにしようとする傾向がありーーパイナップルやその他の植物が幹をもっとも突出したものにしようとするのを観察してごらんなさいーー、植物の主要な器官のどれもが、つまり、根、茎、葉、花、実のどれもが、何らかの植物の形式から主要な器官になろうと努力している、と言うことができるのです。そうですね、トクサ[Equisetum]のような植物を考えてみてください。トクサは茎の形成において上昇しようとしているのがおわかりになるでしょう。別の植物は、葉の形成において上昇しようとし、また別の植物は、茎の形成と葉の形成を萎縮させて花の形成において上昇しようとするのです。

 ここで明かになってくることは、植物成長のこれらさまざまな傾向と、私がきょう人間の外部の自然における鉱物の働きの三つの類型としてあげたものとが、ある意味で並行しているということです。とりわけ植物の自らを解放しようとする働きのなかにあって、さらに寄生植物の内的な活動において最高潮に達するものに目を向けるなら、計測できないものを内面化する傾向を持っているものが得られます。計測できないものとして宇宙から地球へと流れ込むものは、これらの器官が優勢であれば、燐実質のなかに保存されるのと同じように、これらの器官のなかに保存されるのです。ですからつまり、花、種子、それからヤドリギその他への傾向があるもののすべて、これらはある意味で燐的であると言うことができるのです。そして逆に、根をおろすプロセスを研究すればわかることですが、植物が地球を自分の母なる基盤とみなすことで展開するものは、塩形成と密接に関わっているのです。このように他ならぬ植物において私たちはこれらの両極に直面するわけです。そして(両者を)仲介する植物の働き、この働きを皆さんは常に、上方を目指す花や実のようなものと、下方に根を降ろすものとの間に見ているのですが、この仲介する働きのなかに水銀プロセスがあって、これが平衡をもたらしているのです。したがって皆さんが今、植物の体勢が人間と逆転していることを考慮されれば、次のように言われることでしょう。つまり、内的に花ー実形成の性質を持つものはすべて、人間の下腹部の器官および人間の下腹部から方向づけられるすべての器官に対して、非常に強い親和性を有しているにちがいない、さらに燐的なものも、人間の下腹部の器官に対して非常に強い親和性を有しているにちがいない、と。これがまったくもって正しいということは、明日以降見ていきます。これに対して、植物において根のほうへ向かうもの、これはすべて、上に向かって組織されるものすべてに対して特殊な親和性を持つでしょう。けれどもこのとき当然注意しておかねばならないことは、人間を単純に外的な図式にのっとって三つの部分に分けることはできず、たとえば最も下の部分に属する消化システムにしても、上を目指して頭部までいわば継続しているのです。脳の灰白質のなかに本質的に思考物質が与えられているというのは、まったくばかげた見解と言ってよろしいのではないかと思います。これは正しくないからです。脳の灰白質は本質的に、脳に栄養を与えるためにそこにあるのであって、本来脳に栄養を与えるための消化器官のコロニーなのです。一方、脳の白質であるもの、これこそが、思考物質として大きな意味を持っているのです。したがって皆さんは、脳の灰白質の解剖学的な様相においてすでに、通常灰白質に帰せられているものよりも、むしろ全体的な活動に関係しているものを見出されることでしょう。ですから、消化について語るとき、単に下腹部についてのみ語ることはできないということがおわかりでしょう。まったくもって肝要なのは、根のようなものの親和性に目を向けるとき、そこでは単に上部人間のみではなく人間の他の部分とも関連するものと関わり合っているということです。植物において、花を咲かせるもの、実を結ぶものと、根のようなものとの間を調停するもの、つまり、いわば葉やその他通常の草などに現れているもの、これは、抽出された状態であっても、循環障害や、さらには上部人間と下部人間の間の律動的調和に関係するすべてのものにとって、特別な意味を持つでしょう。先ほど、計測できないものを内面かする鉱物と、計測できないものを自分から遠ざける鉱物、そしてこの両者の間にある鉱物が示されましたが、これはごらんのように、いわば植物の構成全体と対比することができるのです。そしてそうすることによって皆さんは、植物がいずれかの器官を発達させることに重きを置く度合いに応じて、人間の生体組織との相互関係を確立するための最初の合理的な手段を、植物そのものから手に入れるのです。これがさらにどのように特殊化されていくかは、いずれ見ていくつもりです。

 さて私たちがこれまでに指摘できたことは、植物的なもの、鉱物的なものと、人間的なものとに間にこのような相互関係が成立しているということでした。近代においてはさらに、人間と動物的なものとの間の親近性、相互関係であるとされているものが、いわば何か非常に希望に満ちたことであるかのようにこれに付加されてきたわけです。とは言え、血清療法の発生に際して奇妙なやりかたで行われていたことは度外視しても、まさにこの普通に行われている血清療法に対して、原則的なことが通用するようににされなければなりません。よろしいでしょうか、血清療法の発生に際して、実際まったく奇妙なやりかたで、ベーリング(☆2)によって行われていたことがあるのです。つまり、行われた説明や、どちらかというと周辺部分を動いてばかりいて、血清が何の役に立つかということのみ語っていた発表論文を追求すると、実際医学制度全体の革新に関わる話であるかのような印象が得られました。けれども、その時行われた基礎となった作業を記述したものに立ち入っていくと、奇妙なことーーこれは誇張ではありません。たぶん皆さんのなかにもこのことをご存知のかたがいらっしゃるでしょうーー、すなわち、人間に転用するためにイルカの研究から推定しようとした療法において、「奇妙に多くの」数のイルカが不都合であることが判明したのです。つまり、血清で処置した多数のイルカのうち、有望な成果を示したものはたった一頭だったのです。偽装された動物治療プロセスにおけるたった一頭のイルカーーすでに血清療法のために大々的に宣伝太鼓を打ち鳴らし始めた時期にこうなのです。このことは単に一つの事実として挙げておきたいのです。皆さんのなかにもおそらくこのことを理解されていくかたがおられると思います。そしてこの、科学の場への登場における法外ないいかげんさ、と申しますか、こういうことこそ、本来科学史において厳密に考慮されるべきことなのです。

 原則的にきょう最後に、そして明日あるいは明日以降挙げておきたいこと、これは何と行ってもやはり、皆さんが見てこられたように、人間において直接効力のあるプロセスは、人間意外の存在の、直接表面に現れているようなプロセスではなく、より深い本質から取り出してこなくてはならないようなプロセスである、ということです。

 さて、人間はまさにある意味において、自らが外に出したもの、つまり、燐プロセス、塩プロセス、花プロセス、実プロセス、根を張るプロセス、葉を生やすプロセスと親和性を持っているのですが、それは、人間がこれらすべてを実際まったく逆転させて生きている、人間は自らのなかに、これら人間外部の自然のなかに現れているものを止揚し、反対のものに逆転させようとする傾向を有している、という意味においてそうなのです。

 動物に対してはこれは同じではありません。と申しますのは、動物はこのプロセスを途中まで経てきているからです。人間は同じ意味で動物の反対に置かれているのではありません。人間はいわば動物に対しては九〇度の位置にいて、植物に対しては一八〇度の位置にいるのです。そしてこれは、血清その他のような動物性の薬の使用について問いが生ずるときに最も考慮されることなのです。

■原注

☆1 この講習の参加者の一人によって行われた講演でのこと。

☆2 Emil Adolf Behring, 1854 ー1917 ベルリン大学衛生研究所および伝染病研究所勤務、ハレ大学教授、後にマールブルク大学衛生研究所所長。 

 ベーリングに関する判断のために:1890年12月4日の「ドイツ医学週報」第49号においてベーリングと北里の論説「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」(*)は、次のような言葉で始まる。「かなり以前から継続してきたジフテリア(ベーリング)と破傷風(北里)に関する研究において、私たちは臨床上の問題、免疫性を与える問題にも接近した。これらの伝染病のいずれの場合にも、感染した動物を治療し、また健康な動物ももはやその後ジフテリアにも破傷風にも感染しないように予備処置をすることに成功した。治療と免疫性の付与がどのようにして達成され得るかについては、ここでは以下の文章の正当性を証明するために必要な程度のみ(脚注)触れておくこととしたい。」云々。

 脚注には、「これについての詳細な報告は衛生学のための雑誌に掲載の予定。」とある。

 この論説においては続いて破傷風による実験が話題となっているのみである。同じく「ドイツ医学週報」第50号においてベーリングはジフテリア免疫の獲得のための実験を記述した。治療に関して彼は「ーー私が強調したいのは、私は人間のためのジフテリアの薬を有しておらず、」最初の論説の先ほど引用した文に並べて置かれなければならないものを「探し求め始めたばかりである。」と書いた。この二番目を論説の最後に彼は破傷風にかかった動物に血清注射が功を奏したことを報告している。この論文は「したがって急性の病気であっても治療の可能性はもはや否定され得ない。」と結ばれている。

 衛生のための雑誌への公表という約束は、1892 年になってようやく果たされた。それ以前には見出せない。そこでは全部で60頭の動物による二つの実験群が共に記録されている。そのうち59頭においては免疫性を与える実験がなされるか、またはジフテリアへの感染と同時に、あるいはすでにその数日前に血清を与えられていた。人間に起こる経過、すなわち感染、病気の一日、三日後に血清注射という経過が模倣されていたのは、一頭の動物においてのみであった。この動物は治癒した。

 その他の「治癒した」動物においては病気がまったく発生しなかったか(実験群II

1891年12月〜1892年1月)、あるいは感染前に血清が与えられたほとんどの場合死んでしまった(実験群I 1891 年9月〜12月)。

 当時の医師サークルの公然性が悪くとられたのは、ジフテリア血清問題に対する批判的な論文を集めたある冊子に由来する(「ベーリングと彼の血清に関するあるいはそれに反対する医師たちの声」カール・ゲルスター博士編、1895)。

■訳注

*「医学の歴史」(小川鼎三著 中公新書)によれば;

 北里柴三郎(1852-1931)は、明治十六年東京大学を卒えてドイツに留学し、コッホの下で研究して、まず破傷風菌の純培養に成功した(1889)。この純培養から破傷風菌の毒素を取り、これをウサギに注射してこの動物の血清に抗毒素を生ぜしめて、その血清により、破傷風の治療および予防ができる。それは北里とベーリングの共同研究として、一八九〇年十二月三日に発表された。その一週間のちに、ベーリングがジフテリアの血清療法を単独に発表した。ジフテリアの死亡率は、それより前は四〇パーセントをこえたのが、以後、その十分の一以下にまで減った。こうして北里は血清療法の開祖の一人として名声をあげ、ベルリン大学から名誉教授の称号がおくられた。


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