ルドルフ・シュタイナー

「精神科学と医学」第17講

1920年  4月6日  ドルナハ

*2013.2.14付の訂正箇所について
(PDFファイルでは135頁)
…タゲリ走り(千鳥足)で走らせるなどして、という部分を
…タゲリのような足取りで[im Kiebitzschritt]走らせるなどして、としました。
タゲリ[Kiebitz}のような走り方というのが、ドイツ語圏で一般的な言い方なのかどうか
わからないのですが、日本でも見られるタゲリは、両足を交互に素早く
動かして走り、時々足で地面をたたくような動作をします。
日本語で「千鳥足」というと、酔っぱらった人のふらふらした足取りを言い、
ここで言われている走り方とは違うようなので、(千鳥足)を削除しました。


 さて、この前の時間に取りあげた素材に基づきまして、この素材を扱える範囲内で、全体にまずは正しく光を投げかけてこれを実り多いものにするいくつかのことを要約しなければならないでしょう。ですから、全てがとっかかりだけになるにしても、私たちがさらに二日とることができればいいのですが。昨日お話ししましたことに続いて、今日は、他ならぬ歯の発達と退化に関していくつか述べたいと思いますが、これは健康なひとと病気のひと双方にいくらか光を投げかけるのに適していると思われます。昨日議論されたようなことは、あまりに唯物論的な意味に解釈されると具合が悪いのです、と申しますのも、この場合本当に重要なことは、外的に起こっていること、そうですね、つまり歯が損なわれるということのなかに見られるのは、ある種の内的なプロセス、本来外的な知覚には隠されていて、外から発生するものはその結果であるようなプロセスの、外的な徴候に他ならない、ということだからです。

 皆さんが歯の形成プロセス全体を理解されるのは、根本的に一見この歯の形成プロセスから遠く隔たっているように見える人体組織の別の経過も視野に入れて見ていく場合でしょう。たとえば、じゅうぶんよく知られてはいるけれども、それを歯の形成プロセスと結びつけて正しく考えることが理解されてはじめてその正しい評価がくだされるような現象、そういう現象と歯の形成プロセスを結びつけて見ていく場合です。起こってくる現象というのは、少女がまったく健康な歯を持っていても、最初の分娩を経たあと歯がだめになる、という現象です。これは、歯痛、歯が損なわれることと、生体組織の構成全体との関連を、非常に徹底的に解明するものです。さらに、歯において起こっていることと、人間の痔疾[Haemorrhoidalleiden]への傾向とのきわめて興味深い関係についても、考慮しなければなりません。これらはすべて関連していて、この関連は、人間において鉱物化の最たるものがどのように作用するかーーなぜなら歯の形成は鉱物化の最たるものだからですーー、他方それが人体の組織化全体といかに密接に関わり、いわばその依存関係、人間のもう一方の端との関わりのなかにいかに現われているかを証明するものなのです。

 歯の形成プロセスの評価ということに関しては、実際次のような否定できないことに非常に影響を受けます、つまり、歯の形成プロセスは、外側の、歯肉の外にある、歯のかぶさった部分までいたる、このプロセスの終結部において、まずもって人間の生体機構が鉱物的なものとして実際に外界に委ねられるのであり、そこにおいては歯の被膜、エナメル(ほうろう)質のなかにあるものはほぼ完全なしかたで閉じられたものであって、そこではもはや、栄養摂取プロセスは起こらないということ、さらにいわばそこにあるのは、まったくもって非器官的な性質となったものであるということ、以上のようなことに影響を受けるのです。さて、すでに昨日暗示したと思いますが、このいわば上昇するプロセスよりは、歯形成において全生涯にわたって絶えず起こっている解体プロセスのほうが重要なのです。しかも、歯のもっとも外的な部分が発達する、人間の生体機構のこの末端部においては、構築するものにおける内的な組織化はまだほとんど行なわれないということを一方で認めなければならないとしても、やはり忘れてはならないことは、この内的な組織化が、解体つまり破壊プロセスと関連しているということ、次の問いは実際のところ、他の問いよりずっと重要であるということです、つまり、人間におけるこのプロセス解体の傾向をいかに遅らせるか、という問いです。ーーと申しますのも、この解体というものがまったくもって単に外的な攻撃によってのみ引き起こされると考えるなら、それは完全な錯誤だからです。これは考慮されるべきことです。

 さらに重要なのは、昨日歯の形成に関連してフッ素の機能について私が申しましたことが、本質的に見て、幼児期に関連しているのは当然だということです、幼児期においては歯の形成プロセスはまず準備されたもののなかで内から外に進みます、なぜなら歯の形成プロセスは、第二の歯(永久歯)が生えてくる前に、生体組織の奥深い内部、全生体組織において準備されるからです。このフッ素形成プロセス、これは、いわば歯の表面の物質のなかに、そのなかでフッ素が一種の安定した平衡状態にいたり、フッ素がその物質と結びついてある意味で静止するような、そういう何かが存在するということにおいて、その頂点に達します。けれども、歯が退化すること、歯が破壊プロセスに向かうことによって、この静止状態は揺さぶられます。ここには歯から発して、フッ素を通じて引き起こされた形成プロセスに関わる精妙なプロセスが存在しています、これは生体組織全体を満たしつつ人間の全生涯のために維持され続けるプロセスです。

 さて、私が今申しましたことはまさに、この場合考慮されることを防止する措置を生み出すことになります。たとえば以下のようなことを言うことができるかもしれません。つまり、私たちのヴァルドルフ学校で教育に取り入れられていることのかなりの部分は、子どもの健全な発達に作用する他のものに加えて、このヴァルドルフ学校にやってくる子どもたちの歯が早期に損なわれるのを阻止することも計算に入れている、と言えるでしょう。なぜなら、まさにこの末端部の条件に関しては、幼児期の正しい教育ということに左右されることがきわめて多いからです。残念ながら、実際は、ヴァルドルフ学校を通じて作用を与えることできるようになる時期は、歯の形成のために行なわなければならない本来の予防的措置のためにはすでに少々遅すぎる、というのが目下の現状です、これはもう少し早く始められなければならないことなのです。とは言え、歯というものはいっぺんに生えてくるものではなく、徐々に生えてくるもので、内的なプロセスはその後長く作用を続けますので、子どもたちを6歳か7歳になってからお預かりしても、まだ若干の措置は可能ですが、それでは全然じゅうぶんとは言えません。と申しますのも、私が申しましたことは、ある種のしかたで実行することができるからです。つまり、最初の歯が生えるときに、歯の形成プロセス全体がどのような性質のものかを、注意深く調べてみなければなりません。さて、こういう歯の形成プロセスはすでに準備されているものだから、歯冠はいわば押し出されるのみでもう完成されているのだから、それは困難だ、という反論は当然のことながらごもっともです。それは正しいのです、けれども、歯の形成プロセスがどのようなものであるかに気づくのは、単に歯そのものだけが手がかりになるのではありません。そうではなく重要なことは、ある子どもが4歳、5歳、6歳になって、腕及び手、足及び脚が不器用である場合、つまり腕と脚、とくに手と足を巧みに扱うことが容易でない場合、その子の歯の形成プロセスが順序正しく組み入れられていない傾向にあるということです。腕及び手、脚及び足の動作にはまさに、歯の形成プロセスにおいて前面に現われてくるのとまったく同じタイプが示されているわけです。したがって、子どもたちが巧みに走るように、走るときに両脚を器用に動かさねばならないようなしかたで走るように、できるだけ早く指導すること、つまりタゲリのような足取り(im Kiebitzschritt)で走らせるなど、一方の足をいつももう一方の足に付けるように走るように指導すること、これは、子どもたちが走ったり、同様な巧みな駆け足を身に付けたりすることで、歯の形成プロセスを高度に調整するように作用するのです。

 ヴァルドルフ学校の手芸の授業にいらっしゃれば、男の子も女の子と同じように棒針編みをしたり、鉤針編みをしたりしていて、どんなことも男の子も女の子も同じようにしているのをごらんになるでしょう。年長の男の子でも、夢中になって棒針編みをしています。これらはすべて、何も奇をてらっているからではなく、指を器用に、柔軟にしようとするため、魂を指のなかにまで送り込もうとするために行なっていることなのです。魂を指のなかに送り込むと、これは特に歯の形成プロセスと関わるものを促進することにもなるのです。子どもが怠惰なとき、じっと座らせたままにしておくのか、駆け回るように導くのか、また、子どもの手を不器用にさせるのか、手先が器用になるよう助けるのか、ということはどちらでも同じというわけではありません。どうでもよいことではないというのは、その時に怠ったことがすべて、後になって、むろん人によって程度の差はあるにせよ、早期に歯が損なわれるということになって出現するからです。これは個人差はありますが、出現するということは確かです。ですから、こう言うことができるのです、人間のこういう訓練を早期に始めれば始めるほど、こういった側面から歯の破壊プロセスを遅らせる影響を与えることができる、と。歯のプロセスに関連するすべてのことに介入することは非常に困難なので、一見かけ離れたものを考慮する必要性に目を向けなければならないのです。

 さてここで、こういう問いが出てきます、フッ素は何を通じて生体組織のなかに摂取されるのか、外部からエナメル質を通じてなのか、歯髄を通じてなのか、それとも血管その他を通じてなのか、という問いです。

 さて、よろしいですか、フッ素そのものは人間を形成するプロセスであり、これがどのような道筋を通って摂取されるのかということについてあまりに思い煩うのはまったく重要ではありません。ふつうはまったく通常の栄養摂取プロセスを通じて導くプロセスを考慮するだけでよいのです、このプロセスにおいて、フッ素結合を含む物質が摂取されます。まったく通常の栄養摂取プロセス、フッ素という物質をこれが蓄積されるべき場所に周辺的に運んでいく、この通常の栄養摂取プロセスを追求しさえすればよいのです。大切なことは、フッ素自体は私たちが考えているよりもずっと広く分布しているということです。フッ素のうちの多くはーーもちろん、比較的多く、ということです、なぜなら人間はほんのわずかしか用いないからですーーさまざまな植物のなかに存在しています。特に植物のなかにフッ素形成プロセスが存在するというのは、このフッ素に関しては、これが化学的に検出できなくても、やはり植物のなかにはフッ素形成プロセスーーこれについてはすぐにもう少し詳しくお話ししていきますーーが存在している、ということなのです。と申しますのも、フッ素は水中にさえ、私たちが飲む水のなかにさえ常に存在しているので、フッ素を手に入れるのに困ることは全くないからです。重要なことはただ、生体組織というものは、まさにフッ素の摂取ということのなかに置かれているきわめて複雑なプロセスを克服するように組織されている、ということです。ですから皆さんが通常の術語で語ろうとすれば、こう言わなくてはならないのです、フッ素は本来、血管を通じてその場所に輸送される、と。

 さらに、割れた歯のエナメル質はなおも養分を供給されるのかどうか、という問いが出てきます。養分の供給はなされません。これはすでに、私がここでお話ししたことからわかることです。けれども、また別のこともあります、この別のことにも注目しなければなりません。つまり、精神科学的に探求すると、歯が形成される部位、歯形成の周囲においては、人間のエーテル体が非常に活発に働いていて、このエーテル体の活動は自由で、いわば物質的機構との結びつきはゆるくなっている、と言えるでしょう。ここで見られる活動は、とくにその部分で観察されるもので、顎の周りにいわば常に動き続ける機構を形成しています。このように自由な機構は人間の下腹部にはまったく存在しません。そこ(下腹部)ではこの機構は、きわめて狭い意味で、物質的、器官的活動と結合していて、私が前に述べました現象というのはこれに関連するのです。これに関連するというのはつまり、エーテル体の活動が、妊娠の際のように、物質的組織からゆるめられると、これは即座に反対の極に、歯の機構に重大な変化を引き起こすということです。同様に、痔疾というものも、物質体とエーテル体が、その機能において独自の道を歩むということと関連しています。けれども、人間の生体機構のこの末端で起こっている、エーテル体が独立的になるということ、これはすぐに他方でまたエーテル体を生体機構のなかに引き入れるので、他方において反対の作用、つまり破壊する作用もそれに結びつけられるのです。器官的な活動を高めるもの、これは健全に出ると妊娠の場合、病的に出るとーーこれも器官的な活動を高めることではあるのですーー病気の場合ですが、この健全な活動を高めるもの、正常な活動を強めるものは、つまり他方においてはより集中的な活動として、歯においてはもっぱら退化させ、破壊するように作用するのです。これは特に意味のあることです。

 さて、むろん次のような問いを投げかけることができます、外的なフッ素作用とでも申し上げたいものについてお話ししましたが、そういうものが作用しないなら、それがじゅうぶん作用しないなら、それを捜し出すことができるのかーー人体組織はとても複雑なので、単に教育する代わりに治療が介入しなければなりませんーー、つまり単に教育することでは間に合わないのであれば、もう治療を始めるべきなのか、という問いです。と申しますのも、私たちの手と足の協演としてあるもの、これらはすべて、肉眼で見えるフッ素作用であり、指が柔軟によく動くようになり、脚が柔軟になると生じてくる素質だからです、フッ素の作用とはこういうものなのであって、原子論的に内部に入っていって空想されるようなものではなく、人体組織の表面に現われてくるものです、そしてこれが内部に向かって継続されていきます。表面において起こっている活動の内的な継続、これがフッ素作用なのです。なぜなら、教育がまずかったということに気づかせてくれるのは、単に歯だけではなく、その子が何も始められない、器用になれない、ということからも見て取れるからです。ここでさらに重要なのは、私たちがいわば予防的に生体組織に介入するということです。ここで、トチノキ(*1)の樹皮[Rosskastanienrinde]から採った液の水性エキス、つまりエスクリンエキス[Aeskulinauszug]を試してみると興味深いでしょう、非常に薄く希釈したエスクリンを内服させると、歯の保護、歯を長くもたせるよう調整的に働きかけることができるのです。ただしそうする時期が遅すぎないならの話ですが。

 これはまた興味深い連関です。トチノキの樹皮の液のなかには、私たちの歯を構築するものが実際にあるのです。外部のマクロコスモスのなかに常に見出されるものは、内的に何らかのしかたで組織化する意味を持っているのです。そしてこのことは、そこでエスクリンが働いている物質から化学作用を投げ出すような何かが、このエスクリンのなかに存在していることと関連しています。実際奇妙なことですが、スペクトル円錐をエスクリン溶液に通すと、スペクトルから化学作用が消去されるのです。このような化学作用の消去は、水性のエキス溶液ーー水性エキスでないといけませんーーを非常に薄く希釈して生体組織内に取り入れる場合にも見いだせます。こうしたことからわかるのは、こういう化学作用の克服、単なる鉱物化を目指すことは、結局生体組織における歯の形成プロセスと同じだということです。ただし、化学作用が消去される際にふつう単に外的に起こっていることも、人体組織のなかにある組織化する力にまだ浸透されいます。

 これと同様のしかたで作用しているのは、別の処置の場合ではありますが、通常見られるクロロフィルです。トチノキやいくつかの別の植物の場合に樹皮に見られる力は、本来葉録素全体のなかに何か別なものを形成します。ただ、その際私たちは葉緑素をいわばエーテルのなかに抽出することを試みなければなりません、しかも内服ではなく、下腹部に擦り込むことによって外用する必要があるのです。従って、エーテル化された葉緑素を下腹部に擦り込むと、エスクリン作用を内的に用いるときと同様なしかたで、私たちは歯の保護のために生体組織に働きかけることになるのです。これらはぜひ試してみるべき事柄であり、これらの統計的な成果が外部に示されればさぞかし重要な印象を与えるにちがいありません。いったん歯髄全体が死んでしまうと、生体組織全体がフッ素摂取に適したものとなるよう努められなければなりません。そうするとこれは一般的な歯科治療の問題ではないのです。

 さて、歯の治療というものが、そもそもまだ歯の治療が可能である限り、人体組織の成長力のすべてといかに密接に関連しているか、以上すべてのことからおわかりになったと思います。なぜなら、私がエスクリンとクロロフィルについて述べましたことは、まったく精妙な成長プロセス、鉱物化に向かう位置にある成長プロセスと本質的に関わっている諸力へと私たちを導いていくからです。人間は、その精神へと向かう高次の発達を、歯を形成するプロセス一般によってあがなわざるをえない、ということになります。系統発生上からもそうなのです。動物の歯の形成プロセスに対して、人間の歯の形成プロセスは、退化プロセスなのです。しかも人間は、この退化プロセスという特長を、そもそも人間の頭部機構のいたるところに見られるプロセスと分かち合っているのです。

 以上皆さんを、歯を形成するプロセス全体を判断するために重要となりうる見方へとご案内いたしました。さらにまた基礎を与えてくれる別のことをつけ加えれば、さらにいくつかのことが判明してくるでしょう。さてここで、一見このこととは関係のないように見える話をつけ加えましょう。それはつまり、食養生の問題とでも呼びうるもので、これもまた、ちょうど今私たちが扱ったような事柄と関連しているのです。こういう食養生の問題というのは、これらが単に医学上の意味を持っているだけではなく、社会的な意味も持っているがゆえに重要なのです。マズダナン食餌療法[Mazdaznan-Diaet](*2)その他の特殊な食養生の形式に正当な意味があるのかどうか、といったことについては大いに議論することができます。議論できるのではありますが、こういう場合つねに問題になるのは、勧められることはすべてその人を非社会的な存在にしてしまうだろうということなのです。ここでは事実社会的なものが医学的なものと衝突するのです。栄養摂取に関して私たちが何か特別なものをとるよう指示されることが多ければ多いほど、外の世間の影響全般に関して、私たちはそれだけいっそう非社会的な存在になってしまうわけです。晩餐の意味というのは、キリストが弟子たち皆に何か特別なものを与えた、ということにあるのではなく、皆に同じものを与えたということにあるのですから。飲食において人間として共にあることができる、という可能性をもたらすことには、大きな社会的意味があるのです。人間の健全な社会的性質を妨げる結果になることはすべて、やはりいくらか慎重に、と申しますか、そのように扱わなければなりません。と申しますのも、人間というものは放置しておくと、これは単にその人が意識していることに関してだけではなく、器官的にその人のなかで作用しているものに関しても言えるのですが、可能なかぎりあらゆる食欲と食欲不振を生じさせてしまうからです。通常行なわれているような意味でこの食欲と食欲不振をながめることは、人間にとってそれほど重要なことではありません。なぜなら、ーーここでは主観的な食欲に対してということではなく、その構成全体に従って、ということですーー人間は本来耐えられないことを耐えることを学ぶまでに至ったなら、つまりもっとも広い意味においてーーこれはまったく器官組織にまで広がっているという意味ですーー食欲不振を克服するなら、皆さんがその人の食欲不振に対応するもの(食べたくないもの)をその人から長いこと離しておくより、その生体機構が獲得するものはずっと多いからです。破壊された器官の、あるいは、エーテル的なものを見れば新しいとさえ言える器官の回復は、耐えられないものを克服すること、そしてまさしくこの克服したということのなかにーーこれは単に比喩的に言っているのではなく、まったく正確に言っているのですがーーあるのです。器官を形成する力はつまり、他ならぬ食欲不振を克服することのなかにあるのです。(逆に)ある時点から食欲のとりこになることによって、今度は器官の役に立つのではなく、器官を肥大させ、器官を退化させてしまいます、つまり、生体組織が害することによって自らから引き離しておこうとしたものに対して屈服しすぎると、生体機構を害することになるのです。けれども、その人にふさわしくないと思われることにその人を徐々に慣らしていくことを試みるなら、これによって常に生体機構は強くされるのです。

 この点に関して現代の自然科学は、私たちが知る必要のあることをほとんどすべて覆い隠してしまいました。と申しますのも、生存をめぐる闘いおよび淘汰といった外的な原理は、実際何と言ってもまったく表面的なものだからです。ルクス(☆1)はこれをさらに人間における器官の闘いに転用しました。しかしそれは非常に表面的なことです。こういうことは、本来内的に起こっていることを真に観察してはじめて意味のあることなのです。ですからここでこう言わなくてはなりません、人間の器官、系統発生の系列上にある器官一般を強めることは、常に反感(食欲不振)を克服することによってなされる、と。形成、つまり器官を形づくることは、反感(食欲不振)の克服の結果もたらされます、他方、すでに存在している器官の成長は、食べるとことへの共感のとりこになることによってもたらされるのですーーまさに食欲はある一点を超えてはならないのです。食べることへの共感と反感は、単に舌の上あるいは目のなかにあるのではなく、生体組織全体にこの共感と反感が鳴り響いているのです。どの器官もそれ自身の共感と反感を有しています。ある器官は、ある種の状態でその器官を構築したものに対して反感を持ちます。その器官はつまり、それが完成したときにその器官が反感を持つもののおかげで、構築されるわけです。これは、外界がまず作用すると、内部がそれに対して抵抗し、反感のなかで自らを発散して、まさにそうすることよって生体機構の完成がさらに進められることになる、ということが考慮されるならば、さらにもっと系統発生学へと下っていくであろうことです。生体組織の領域で生存競争にもっとも良く耐えるひとは、内的な反感を克服してその代わりに器官を作る能力をもっとも多く持っているのです。

 このことを考察すると、薬剤の配量ということを見ていく上でも拠り所が与えられます。器官を形成するプロセスそのもののなかに、共感と反感の間を絶え間ない揺れ動きを見て取ることができるでしょう。器官の発生というものは本質的に、共感と反感の形成とともに共感と反感との間の相互活動に関わっているのです。生体組織における共感と反感の関係はこのようなものですが、低めの配量、つまり物質として実質的に適用されるものと、高いポテンシャル(希釈度)で用いられるものとの関係も同様です。高いポテンシャル(希釈度)は低いポテンシャルとは逆の作用をするのです。これは組織化する力全体と関係しています。それである意味では、私が昨日別の観点から暗示しましたこと、これもまた正しいのです、つまり、最初の生命周期に生体組織においてある特定のしかたで作用しているものは、後の生命周期においては逆の作用をすること、つまりそのとき生体組織で作用しているものがずらされることがある、ということです。これがもとになって、昨日皆さんにお話ししたように、一方においてはデメンティア・プラエコクス(精神分裂病)、他方においては魂の範囲が(他の部分から)絶縁されるということが起こってくるのです、この魂の絶縁は後の年令になって、生体機構を捉えるべきではないときに捉えてしまうことになります。

 現代科学自体が少しばかりまた霊化され、私たちがもはやいわゆる精神病なるものを霊的ー魂的な方法で治療しようとせず、次のような問い、つまり、何らかの精神あるいは心魂の病があるとき、器官のなかでどこが不調なのか、という問いを投げかけようとするような事態となってはじめて、こういう事柄について適切に処理することができるようになるのです。逆に、奇妙に聞こえるかもしれませんが、いわゆる肉体の病気の場合の方が、心魂の病の場合よりもはるかに、心魂的なものに目を向け

ることでずっと多くの手がかりを得られるのです。心魂の病の場合、心魂に関する所見が、診断上の助けになるという以上の意味をもつことはほとんどありません。観察を通じて、生体組織のどこに欠陥があるのかをそこから探り出すために、心魂上の所見を研究しなければならないのです。古代人たちはこの点に関して、術語の上でもすでに配慮していました。実際、古代人たちが、ヒポコンデリーの魂の病像を、純粋に唯物論的に聞こえる呼び名、つまり「下腹部の骨張り」とか「下腹部の軟骨状態」といった呼び方で、「ヒポコンデリー」(心気症、憂鬱症)に結びつけたのは、故なきことではありません。彼らが、心魂的なもののなかで起こっている事実をもっぱら下腹部の疾患とは別の何かのなかに探求するーーヒポコンデリーが錯乱にまでおよんだ場合ですらーーことは決してなかったでしょう。何はともあれ、いわゆる物質的なものをすべて霊的なものとみなすことのできる状態になる、というところまで行き着かねばならないことは言うまでもありません。

 私たちは今日、唯物論が思考方法に継続されたカトリック的苦行であることによって、実際途方もない損害を被っているのです。この苦行は自然というものを侮蔑し、自然を侮蔑することを通して霊(精神)を勝ち取ろうとしました。今日の世界観はこの苦行的な方向から取り出してこられたものであり、この世界観は、下腹部で起こっていることなどは粗雑で物質的なことであり、そんなものに注意を払う必要はない、と考えるのを好むのです。しかし実際はそんな世界観はまったく正しくありません。こういう事柄の内部ではことごとく霊(精神)が作用しており、その内部で霊(精神)がいかに作用しているかということをこそ知らねばならないのです。私が、生体組織のなかで作用している霊を、外部にある何かにおいて作用している霊と結びつけると、霊的なものと霊的なものが共に作用します。私たちは自然を侮蔑することをやめなければなりません。私たちはまさに、自然全体をふたたび霊化して眼前に思い描くということに至らなければならないのです。と申しますのも、まさしく唯物論の高まりのさなかにあるというのに、いわゆる異常な状態にあるひとたちに、ありとあらゆる催眠や暗示で働きかけようとする欲求が現われきています、これは、何とも奇異であるし、医学的な思考の改革にとってきわめて重大なことであるとはお思いになりませんか。物質的なものから一見離れているように見える事柄が、他ならぬ唯物論の時代に登場してくるのです、そして水銀、アンチモン、金、銀の霊的性質について探求する可能性は失われてしまうのです。本質的なことは、物質的なものの持つ霊的性質について探求する可能性が失われてしまったということです。それゆえひとは霊的なもの自体を扱おうとします、ちょうど精神分析においてそうされるように、霊的なものそれ自体を管理しようとするのです。物質の霊的特性についての健全な直観がふたたび広まらなくてはなりません。

 このように外界の物質的実質のなかの霊性に対する信仰が生き生きと保たれてきたことは、十九世紀を通じて他ならぬホメオパシーの伝統のなかに浮かびあがってきた、少なからぬ功績のひとつであることはまちがいありません。それどころか、これはきわめて重要なことのひとつとさえ言えます。なぜなら、外的なアロパシー的な医学は、残念ながらますます、物質的なもの、人間の外部にある物質の外的物質的作用のみに関わるべきである、という信仰の方に向かっているからです。けれどもこれは(ホメオパシー的医学は)、一方においてはいわゆる肉体上の病気の診断の際には、魂的な状態に注意を向け、逆に魂的に異常な状態が強く現われているときには肉体的に損なわれているところを捜す、という方向に通じていくのです。肉体の病気の場合は、常に、この病気に罹った人はどのような気質なのか、という問いが出てこなければなりません。その病気に罹っている人がヒポコンデリー的な性質(憂鬱質)である場合、その人の通常のヒポコンデリー的性質だけでも、私たちを導いて、その人の下部人間に強く働きかけるように処置させるだろう、つまり物質的に働くもののなかで、すなわち低いポテンシャルで処置するように導くだろう、ということがわかるでしょう。また、その人が病気以外のときでも利発な精神の持ち主であるか、多血質である場合、高めのポテンシャルを頼みとすることが最初から必要になるだろう、ということもわかるでしょう。要するに今度は心魂的な事実こそが、まさに肉体上の病気に対して明らかにされねばならないこととなるのです。こういう心魂的事実はすべて、子どもの場合でももうある種の仕方で現われてきますが、その子が粘液質への傾向を示しておらず、本来なら後の年齢になってはじめて現われるべき気質の萌芽が、たとえひかえめであってもすでに明確にその子のなかにに見て取れるというのでなければ、デメンティア・プラエコクスはそう簡単には発病しないでしょう。けれども、内的な能動性か内的な受動性かということに関しての区別は特に重要です。これはしばしば考慮されることです。考えてもごらんなさい、私たちがいわゆる心理療法なるものにおいて暗示を用いて働きかけるとしたら、私たちはその人を別の人間の影響下に置くことになり、その人の能動性を阻んでしまうのです。そしてこの能動性の阻害、人間の内的なイニシアティヴを阻むことはをすでにもう、外的生活において人生に重要な意味を持つことをもたらしてしまうのです、つまりこれは私たちがーーこのことについては明日さらにお話ししようと思いますーー子どものなかに適切に観察するなら、これもまた後の人生においてふたたび歯の問題に関係してくることです。

 たとえば、私は自分にとって、ーー前に申し上げたことに従えば、こういうことを考慮しておくことも大切なのですーーある食品を避ける必要があり、別の食品をもっと取り入れる必要がある、と考えることができます。私は自分にとってある種の食餌療法が必要であると考えることができるのです。それは私のためにとても良いかもしれません。とは言え、私が自分で試すことによって、自分であれこれのものにたどり着くことによってこの食餌療法に至るのか、単に医師に指示されてそうするのかではいささかならぬ違いがあるのです。どうか、私がこんなふうにそっけない言い方をしても悪くお取りにならないでください。私に良い食餌療法を私自身が本能的に見つけ出して、自分のものにし、医師の指導のもとで身につけたにしてもその際自分でイニシアティヴは発揮した、ということであろうが、単に医師にそれを指図してもらった、ということであろうが、唯物論的な考え方の前では、どちらにしろ同じように役に立つかのように思われるのではないでしょうか。こうした作用の最後の結果、とでも申し上げたいものは、次のようなことに示されます、つまり、医師に指示されてそれに従った食餌療法は、最初のうちこそ私のために役立つでしょうが、残念ながら有害なこともあって、その食餌療法をしなかった場合よりは、高齢になってから痴呆化しやすい、つまり老人性痴呆になりやすいということ、他方、食餌療法に積極的に協力することは、老齢に至るまでーーもちろんこういうことを引き起こすその他の要因も加わってきますがーー私が精神的に活発であり続けることを容易にする、ということです。こうした能動性と非能動性の動きは、あらゆる暗示療法の際にまったく損なわれてしまいます、その場合私は自分の判断を放棄して、他者が指図することを行なうまで依存にしきってしまうのみならず、自分の意志の導きを他者の判断にゆだねることさえしてしまうのです。ですから催眠と暗示に立脚する治療法はできるだけ使わないようにすべきです。ただし次のように言えるとき、つまり、このような処置をされるどんな人にも起こってくるこの意志の阻害が、当の人においては別の根拠から有害ではなく、一定期間暗示的な方法で助けるほうが当人のために親切であろうと言える場合にのみ、こういうことを適用することもできます。しかしながら、一般的に言って、人間の生体組織の物質作用、大気的作用、運動作用のなかにあるもの、要するに、直接的な霊的作用ではなく、意識からでも無意識からでも、能動的にイニシアティヴをもってその人自身から発してくるにちがいないすべてのなかにあるもの、こういうものの持つ治癒的な働きこそ、精神科学が指摘しなければならない重要なことなのです。

 こういうことが非常に重要なのは、まさに唯物論的な時代にあっては、こういう事柄に反することがもっとも多く、しかも、支配的な見解に汚染されて、今日ありとあらゆる催眠的傾向、暗示的傾向が教育学にも取り入れられる、というぞっとするような事態を体験することさえありうるからです。こういう傾向が教育学のなかに取り入れられるというのは恐るべきことです。眠り込ませる代わりに目覚めをもたらす人体組織の活動は、これに対して、どのように作用するか、こういう問いに答えてはじめて、この方向においてはっきりとわかってくるのかもしれません。人間は眠りにつくと、表象のなかに、意志の活動にはしたがわない運動をもたらし、その際人間はいわば外界に対して静止する一方、その意識体験においては活動的になるのですが、オイリュトミーの場合はこれとは逆のことが起こります。オイリュトミーにおいては、眠りこむのとは逆のものがもたらされます、通常の意識現象に対してより強い覚醒がもたらされるのです。夢のなかに見られるような表象の肥大が取り去られ、その代わりに、意志が健全に養成されて四肢に送り込まれます。生体機構のなかの意志が、四肢のなかまで送り込まれるのです。さらに、ととえばオイリュトミーの母音の動きが下部人間と上部人間に与える作用はどのようにちがうのか、逆に子音を形成するオイリュトミーの動きは、下部人間と上部人間にどのように異なった作用をするのか、について研究を始めると、オイリュトミーのなかにも重要な治療的要素(☆2)を探求できることがわかるでしょう。

 

■原注

☆1 Wilhelm Roux 1850〜1924 ドイツの解剖学者、生理学者。1895〜1921ハレ大学教授。主要著書:「生体組織における各部の闘い」(ライプツィヒ1881) 「生体組織進化のメカニズムについて」(ウィーン 1890) 「進化のメカニズム」(ウィーン 1905)

☆2 ルドルフ・シュタイナー「治療オイリュトミー」(GA315)参照。この講習は(この「精神科学と医学」の)一年後、医師のための二度目の講習「治療のために精神科学的観点」(GA313 1921年4月12日〜18日)の期間中に行なわれた。

■訳注

*1 Rosskastanie トチノキ属。セイヨウトチノキ、マロニエ。

*2 マズダナンは、1900年ごろA. Hanisch によって創始された、ゾロアスターの教えに基づく生活様式運動。マズダナン食餌療法はそれに基づく食餌療法と思われる。   


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