ルドルフ・シュタイナー

「精神科学と医学」第16講

1920年  4月5日  ドルナハ


 皆さんに提出していただいた質問が、少しずつ講義のなかに登場してくるのがおわかりになると思います。ただ重要なのは、これらの質問にラツィオにのっとって答えるための土台を築くことです。今日は、昨日急いで立ち入ったことを引き継いでいきたいと思います。昨日注意を向けていただいたことは、脾臓の機能が人間の生体組織のなかでいかに重要であるか、ということでした。この脾臓の機能は、本質的に、意識下の魂生活を制御するものと言わなければなりません。脾臓を従属的な器官とみなすなら、人間の本性全体を見誤ることになります。脾臓というものがまさに非常に霊化された器官であって、脾臓の機能を支持するために他の器官も引き寄せられるため、脾臓の機能が単なるエーテル的な脾臓によって非常に容易に肩代わりされやすい、ということによって、こういう錯誤、誤解が引き起こされるのは言うまでもありません。けれども、まさに下意識からもっと意識のほうへ引き上げられた場合に、脾臓の機能はもっと奇妙なものであるということを、皆さんも納得されることでしょう。ここで私たちは奇妙なことに、まさしく脾臓をてがかりにして、近代において実際興味を引くものとなったある種の治療法を観察することになるのです。特別なことというのはただ、私たちがここで脾臓の作用を出発点とするということです。つまり皆さんは、脾臓のあたりを弱くマッサージすることがとりもなおさず人間の本能活動に対して均衡をとるように作用する、ということを確認することができるでしょう。脾臓のあたりをそっとマッサージすると、人間はある種のしかたで、より良い本能を獲得し、つまりたとえばその人に合った食物を容易に発見することができて、生体組織のなかでその人に役立っているものやそうでないものに対して健全な関係を持つことができるのです。とは言え、この脾臓付近のマッサージはすぐに限界に突き当たります。マッサージが強くなりすぎると、たちまちこれは本能の活動をまたもや完全に弱めてしまうことになるのです。したがって、ここでまさにゼロ点、とでも申し上げたいものを独特に保持することが必要になってくきます。そっとマッサージする範囲をあまり広くしすぎてはいけないのです。

 さて、そもそもこのことはいったいどういうことと関係があるのでしょうか。脾臓をマッサージするとーー脾臓のあたりを、という意味ですがーー、実際この脾臓のあたりに、ふつうはそのあたりにはないものが送り込まれます。いわば、マッサージされている人の意識がここに投影されるのです。このように意識を転移させることと、意識をこのように流れさせること、これをもとに、非常に多くのことが成り立っています。人間の生体組織のこのような精妙な作用のしかたを、私たちの無骨で粗雑な言葉で表わすのは、困難な場合もあります。奇妙なことに聞こえようとも、人間の生体組織のなかで脾臓によって、いやそれ以上に脾臓の機能によって媒介されているあの無意識の理知、理性のはたらきと、人間の生体組織の意識的な機能との間には、強い相互作用が存在しているのです。それでは、人間の生体組織の意識的な機能とはそもそもいったい何なのでしょうか。生体組織において、物質的な経過が、高次の意識経過に、とりわけ表象の経過に伴われるというかたちで起こっていることはすべて、生体組織における毒の作用なのです。これは見過ごしてはならないことです。生体組織はまさにその表象活動を通じて、絶え間なく自らを毒しているわけです。この毒する状態は本来、無意識の意志状態によって絶えず宥和されています。脾臓にはこの無意識の意志状態のための中心があるのです。マッサージして影響を与えることによって、脾臓を意識で満たすと、私たちの高次の意識から発する強い有毒の作用に対抗する働きかけができるのです。

 けれども脾臓マッサージは必ずしもいつも外的なものである必要はなく、内的なものであることもできます。もしかすると皆さんは、これをマッサージと呼ぶことに異論があるかもしれませんが、重要なのはただ、私たちが理解しあうということなのです。つまり、脾臓マッサージというものは次のようなことによっても行なうことができるのです、たとえば、毒する状態に起因する内的器官活動が強いとみられる人の場合、そのひとに、主な食事(一日の最も正式な食事、ドイツではふつう昼食)の時にのみ食べないで、主な食事の時にはできるだけ少なく食べて、もっと何度も食べなさい、食事の間隔がもっと短かくなるように食事を配分しなさい、と言うことによってです。このひとにそのように言うことによって脾臓のこの異常な状態に影響を与えることができるのです。食べる活動をこのように配分することが内的な脾臓マッサージであり、これは本質的に、脾臓のはたらきに影響を及ぼします。ただ、こういうプロセスに該当するものすべてにある種の難点があるように、このことにもむろん難点があるのです。と申しますのもよろしいですか、今日のように慌ただしい時代にあっては、人々は実のところいつもーー少なくとも大多数の人はーー外的な消耗させる活動に追われていて、脾臓の機能は、人間が活動するがゆえに、まさにこの外的な消耗させる活動によってきわめて強く影響を及ぼされています。人間は、ある種の動物たちとは異なり、横たわって消化を外的活動によって妨げないようにすることで健康を維持するということをしません。動物たちが本来脾臓の働きをいたわっているのは事実です。人間は、外的、神経症的な慌ただしい活動のなかにあるときは、脾臓の働きをいたわりません。その結果、そもそも文化人においては全般に脾臓の働きが次第に大変異常なものになっていくわけです。そうしますと、私がただいま少し述べましたような手段で、脾臓機能の負担を軽くすることが特に意味のあることとなります。

 内的にせよ外的にせよ脾臓マッサージのような繊細なマッサージにいくらか注意を向けさえすれば、無意識的なものを媒介する器官と、意識的なものを媒介する器官との間の関係について、いわばすばらしい示唆が得られます。と申しますのも、それによってマッサージの意味がわかり、少なくともマッサージ全般の意味を理解することが容易になるからです。マッサージはある種の意味を持っており、とくに作用を及ぼすのは人間におけるリズミカルな活動の調節であるとは言え、状況によっては強力な治癒作用も有しています。マッサージは主として人間におけるリズミカルな活動の調節に作用します。しかし、マッサージの成果を上げようとするなら、人間の生体組織をよく知らなければなりません。たとえば次のようなことをよく考えてごらんになれば、導きを得られるでしょう。人間の生体組織にとってーー動物ではなく人間の生体組織ですーー腕と脚とはたいへん異なっている、ということをちょっと考えてみてください。人間の腕は、重力のなかに組み込まれることを免れ、自由に動いていますが、この人間の腕というもの、この腕のアストラル体は、人間の脚よりもずっと物質体との結びつきが弱いのです。人間の脚においては、アストラル体は非常に密接に結びついています。腕においては、アストラル体は皮膚を通じて外から内へと作用するほうが多いのです。アストラル体は腕と脚とを包み込み、外から内へと作用します、アストラル体はある意味で包み込む作用をしているのです。脚と足においては、アストラル体を貫いて意志が、内から外へときわめて強く遠心的に、きわめて強く放射しつつ作用しています。これによって、腕と脚との違いは少なからぬものとなります。その帰結として、ある人の脚と脚をマッサージするとき、その人の腕と手をマッサージするのとは根本的に言ってまったく違う活動を行なっている、という事になるのです。ある人の腕をマッサージすると、そのマッサージはアストラル的なものを外から内へと引き入れます。腕はそれによって、通常よりもむしろ意志の道具となり、腸と血管との間で起こっている内的な新陳代謝を調節するよう作用が引き起こされるのです。すなわち、腕と手をマッサージすると、血液形成に対してより多くの作用が引き起こされます。足と脚をマッサージすると、そこでは物質的なものが表象に応じたものに変化する度合いが増し、排泄ー分泌プロセスと関連している新陳代謝全体、つまり排泄ー分泌プロセスであるものに関連している新陳代謝を調節する作用が起こされるのです。ある場合には腕から発して内部の構築的な新陳代謝領域の方へとつながり、別の場合には解体する領域への作用へとつながっていく、マッサージの作用のこのような継続のなかに、人間の生体組織というものがそもそもいかに複雑なものであるかを見て取ることができるのです。こうして、皆さんが事態をラツィオにのっとって探究してごらんになれば、事実、体のどんな箇所もその他の箇所とある種の関わりを持っていて、マッサージというのはまさに、生体組織とのこの内的な相互作用をしかるべきやりかたで見通すことに基づいているのだということがおわかりになるでしょう。下腹部をマッサージすることは常に、呼吸活動にも良い成果をもたらすことができます。他ならぬ下腹部のマッサージが呼吸活動にとってとりわけ良い影響を及ぼす、ということは特に興味深いことです。しかも、心臓の下あたりを直接マッサージする場合、上から下へと離れていくほど呼吸への影響は強くなり、さらに下へ進むと、今度は咽喉の器官への影響が強まります。つまりちょうど逆になっていて、胴体のマッサージにおいては、下へと進むほど、上に向かって位置している器官が影響を受けるのです。これに対して、たとえば腕のマッサージは常に、胴体の上部を同時にマッサージすることによって強められます。これは、まさに人間の生体組織のいわば個々の部分の連関を具象的に示している事柄です。実際、下部人間と上部人間の相互作用、生体組織のまったく離れた位置にあるけれども密接に関係している各部分全般の相互作用、こういう相互作用が、たとえば偏頭痛のような場合にとりわけ顕著に現われてくることがわかります。

 偏頭痛というのは実際のところ、本来は生体組織の他の位置にあるべき消化活動が、頭のなかに移動されたものに他なりません。したがって、たとえば月経のような、その他の生体組織を非常に強く用いるすべてのものによって、偏頭痛も相応に影響を受けるのです。このように頭部に組み込まれていない消化活動が起こることによって、頭部の神経に、通常の生活では免除されている負担がかけられる、ということについて言われなければなりません。頭部においてはまったく規則的な消化活動、つまり摂取活動だけが起こっている、というまさにそのことによって、頭部神経は負担を免れ、知覚神経に作り替えられるのです。今特徴をお話ししたような無秩序な活動が頭部で起こると、この特徴は頭部神経から取り去られます。皆さんは内的に感じやすく敏感になり、内部組織が感受すべきではないものをこのように感じ取ることが原因となって、偏頭痛の場合の痛みも、こういう状態全般も、起こってくるのです。周囲、つまり外界を知覚する代わりに、突然自分の頭の内部を知覚するよう強いられた人がどんなふうに感じるか、まったく想像に難くないでしょう。さてしかし、この状態を正しく見通すひとは、偏頭痛の場合やはり最良の薬としては、安静にしてよく眠ることだけだと指摘できるでしょう。と申しますのも、普通用いられているもの、あるいは用いることを強いられることもあるものはすべて、本来有害な作用を及ぼすものだからです。通常の、しばしば用いられる逆症療法の薬を使用なさると、皆さんはつまり、この敏感になっている神経器官を麻痺させてしまう、すなわちその活動を低下させてしまう、ということになります。そうですね、劇の公演に出演しなくてはならないというときに、偏頭痛にとりつかれ、出演できないよりは、自分をいくらか害する方がまし、という、まさにこういう場合、私が申し上げること、つまり本来麻痺させてはならないものを麻痺させる、ということがとりわけよく観察できます。こういう事柄において示されているのは、人間の生体組織がいかに精妙きわまりないものであるか、単に社会的に人生に参加することによっても、いかにしばしば生体組織の素質にそむかざるを得ないか、ということであるのは言うまでもありません。

 これはまったく当然のことであり、決して無視されてはならないことです。ですから、人間の社会的立場を通じても引き起こされる害を受け入れて、場合によってはさらに起こってくるであろうその後遺症を完治させるほかない、ということもあるのです。

 結局この人間の生体機構がいかに精妙なものであるかということ、このことはさらに、事態に即したやりかたで色彩ー光療法へと立ち入っていく場合にも示されます。この色彩ー光療法というものは、少なくとも過去において考慮されていたよりも、将来もっと考慮されてしかるべきものです。さらに、上部人間に強く訴えかける本来の色の作用と、客観的なもののなかに吸収されて人間全体に訴えかける光の作用との違いにも入っていくことがとりわけ不可欠です。単に人を部屋に連れていって、客観的な色と光でそのひとを照らすか、あるいはそのひとの一部を、色か光の客観的な作用にさらすかすると、ある器官作用が直接引き起こされます。これはまったくもって、外部から人間に作用するものです。けれども、普通は意識によってのみ用いられているものを、つまり色彩の印象、色がそこにあるという事実を、なんらかのしかたで用いるような導入がなされると、つまり、私がそのひとを色のついた光で照らす代わりに、そのひとをある種の色で内張りされた部屋に連れていくと、これはまた別の作用であり、この作用は、ともあれ意識の器官に向かって位置しているすべての器官を通っていくものです。この主観的な色彩療法の場合は、すべての状況において自我に働きかけがなされています、他方、客観的な色彩療法の場合は、物質的な組織に働きかけがなされ、まずこの物質的組織を通って迂回してから自我に作用が及ぼされるのです。ですから、盲目のひとたちを特定の色で内張りされた部屋に連れていってもむだだ、彼らはどんな印象も持つことはできないから、結局どんな作用も現われないはずだ、などとおっしゃらないでください。そうではないのです。ここでは、知覚しうるものの表面下にある知覚しうるものの作用、とでも申し上げたいものが非常に顕著に現われてくるのです。盲目のひとを、赤か青で内張りをした部屋に連れていったとしても、そのひとにとっては、違いがあるのです。つまりこれは本質的な差異なので、私が盲目のひとを青い壁の部屋に連れていくと、そのひとの生体機構全体、その機能しているものが、頭部から他の生体組織へと引っこむようにそのひとに働きかけることになる、と言うことができるのです。彼を赤く内張りした部屋に連れていくと、その機能は、他の生体組織から頭部へと向かいます。このことから、このように環境を客観的に彩色する場合に本質的なことは、私がある色をほかの色に交替させるときに引き起こされるリズムのなかにあるのだということがおわかりになるでしょう。あるひとを青い部屋に連れていくか、赤い部屋に連れていくか、ということはあまり本質的ではなく、あるひとを赤のなかに置いたあとで青のなかに連れていくか、青のなかに置いてから赤のなかに連れていくか、ということの方が本質的なことなのです。このことは本質的な意味を持っています。あるひとが一般的に言って、頭部機能を強く刺激することを通じて他の組織を改善する必要があると見られる場合、私はそのひとを青い部屋から赤い部屋に連れていきます。他の生体組織を通じて頭部機能を改善させようと思えば、そのひとを赤い部屋から青い部屋に連れていくのです。これらは、私はそう信じているのですが、そう遠くない将来における非常に重要な事柄であり、その場合には光療法ではなく色彩療法が大きな役割を果たすでしょう。

 意識と無意識との交替が、将来の治療において役割を果たすようにさせられる、ということが重要なのです。と申しますのは、これによって、そうですね、入浴を通じて人間に作用する物質の独特の作用のしかたについて、健全な判断を獲得するすべも学べるでしょうから。私が人間に外からもたらすものが、そのひとに冷たい印象を起こさせるように作用するのか、暖かい印象を起こさせるようにもたらすのか、両者には大きな違いがあります。冷たい印象というのは本来、湿布や入浴において何かがひんやりと作用する場合は、これは本質的にその物質(そのものの)の作用[Substanzwirkung]であり、治療がそこにあるとすればまさに治癒的に作用するものである、というように把握されなければならないでしょう。この場合これは当の薬の物質作用なのです。けれども、私にもたらされるものが冷たい作用ではなく、たとえば温湿布のように、暖かい作用をする場合、これはまったく物質ではなく、つまりいかなる物質を用いようと大差なく、考慮に値する温熱作用なのであり、結局この温熱作用にとっては、どういう面から考慮されようと同じなのです。ですから、冷湿布の場合は、湿布に用いる液体、水をあれこれの物質にどのように浸透させることができるかということに、常に注意が払われます。これらの物質を有効に作用させることができるのは、これらを冷水のなかで有効にさせることができるとき、つまりこれらが低めの温度で溶解しているときでしょう。これに対して、その物質そのものの作用をおそらくほとんど直接引き起こすことができないのはーー非常に強い香りを持つエーテル的な物質、こういう物質の場合事情は異なり、高温においてもその物質そのものの作用が存在しているのですが、こういう物質を扱わないとすればーー固体として溶解しやすい物質の場合です。温湿布の場合あるいは温浴の場合、治癒作用は引き起こせないでしょう。それに対して、硫黄そのもののような、硫黄的、燐的な物質は、これらを温浴に加えれば、逆にそういう場合こそしかるべき治癒作用を展開することができるでしょう。

 つまり重要なのは、私がいま提示しましたような諸関係を見る方法を繊細なものにするということです。ここで申し上げたいのは、いわば一種の原現象(ウアフェノメーン[Urphaenomen])を設定すれば、皆さんには非常役立つだろうということです。一種の原現象を設定するというこの方法は、医学的なもの等の養成が秘儀から発することがもっと多かった時代においては、大きな役割を果たしていました。当時ものごとは理論的に表現されるのではなく、いわば原現象を通じて表現されていたのです。ですから、たとえば「蜂蜜かワインをお前の内にもたらせば、宇宙からお前に作用を及ぼす力を内から強めるだろう」と言われたのですーー「そうすればお前は本来の自我の力[Ich-Kraefte]を強めるだろう」とも言えるでしょう、これは同じことでしょうからーー。これはいわば、ものごとを非常に見通しよくするものです。「お前の体に油性のものを塗れば、お前のうちの、本来の地の力[Erdenkraefte]の有害な作用を弱めることができるだろう」、地の力とはつまり、生体組織において自我の作用に対抗する力です。「内からの甘い(甘いものによる)強化と外からの油性(油性のものによる)の弱化の間に正しい度合いを見出せば、ひとは老いる」、古代人たち、古代の医師たちはこう言ったのです。「お前が油を擦り込むことで、油の作用により有害な地の作用をお前から取り去るなら、またお前がそうできる状態にあり、お前の生体機構がそれをするには弱すぎるというのでない場合に、ワインと蜂蜜によってお前の自我の力を強めるなら、お前はまさにお前を老齢に導く力を強めるだろう」。これらは、当時原現象的に言い表わされるものであった事柄です。本来は、教義を通じてではなく、事実を通じて道を示そうとしていたのです。これらは、私たちもまたもどっていかなければならないことです。なぜなら、このようにして原現象に回帰することができると、外界のこのように多様な物質のもとでも見当がつくからです、何か具体的なものを登場させようとするとすぐさまひとを見殺しにするいわゆる抽象的な自然法則なるものに回帰するよりは、ずっと容易に見当がつくのです。

 さて、とてもたやすく言い表わしうる原現象もあります。そのような非常に単純な原現象を皆さんにご紹介したいと思います。まず、「両足を水に入れるがよい、するとお前は血液調製を促進する力を下腹部に呼び起こすだろう」というものがあります。ここで皆さんは非常に指針となる原現象を獲得するわけです。「頭を洗うがよい、そうすればお前は排泄を調整する力を下腹部に呼び起こすだろう」。これらは実際、非常に教えられるところの多い原現象です、自らのうちに法則性、真実を有しているからです。私がこのようなことを申しますとき、人間がその内部にいるのです。と申しますのも、私が人間のことを考えなければ、こういう事柄はむろん何の意味も持たないからです。こういう事柄すべてにおいて人間のことを考えるということには非常に大きな意味があります。

 さてこれはまた、人間の生体組織における諸力の空間的な相互作用を示すものでもあります。しかし、時間的な相互作用というものも存在していて、この時間的な相互作用は、たとえば、子どもの頃か、青少年期の初めにまちがった扱いを受けた結果、まさに青少年期や子ども時代に育成されるべきものが一生を通じて育成されず、本来は年配になってから育成されるべきものがすでに育成されているようなひとを観察する場合にしばしば現われてきます。人間というものは実際、幼少期においてすでに、まさに自分の生体組織を形成していくある種の力を発達させているものなのです。しかし、青少年期に生体組織において形成されるものすべてが、青少年期のうちに正しく適用されるわけではありません。私たちが青少年期に生体組織を形成するのは、年配になってからようやく活動を始めるものをとっておくためでもあるのです。つまり、子どものころすでに、ある種の器官とでも申し上げたいものが構成されますが、これは子ども時代に使用されるべきものではりません、年をとってからはもうこの器官を作り出すことができないので、年をとってからの使用のためにこの器官が備蓄されているのです。たとえば次のようなことがまったく顧慮されない場合、つまり、歯が生え変わるまで人間は模倣を通じて教育しなければならず、さらに歯が生え変わってからは、権威というものが大きな役割を果たすように教育し、育成しなければならないということ、こういうことが考慮されないなら、年を経てからの使用のためにとっておかれるべき器官が早い時期に用いられてしまう可能性があるわけです。今日の唯物論的な思考法は当然こう非難するでしょう、模倣を用いるか権威を用いるかがそんなに大きな意味を持つわけはない、と。しかしながらこれはものすごく意味のあることなのです、なぜなら、この作用は生体組織のなかで持続していくからです。子どもはその魂生活全体をもって模倣のなかにいなければならない、ということを考慮しておかなくてはなりません。たとえば以下のようなことは非常に大きな意味を持っています。考えてみてください、教育するひとと同じ食物への共感を模倣するように子どもを育てることによって、食物に対するある種の共感を子どもに植え付けるとします。そうすると皆さんは、この模倣原理をこの食物への食欲を根づかせることに結びつけることになり、ここに生体組織における模倣衝動の継続が見られるわけです。のちの権威(に基づく)生活の場合も同様です。要するに、本来は年をとるまでとっておかれるべき器官ーーこれらはもちろん精妙な生体機構なのですがーーが、子ども時代に用いられてしまうと、恐ろしいデメンティア・プラエコクス(精神分裂病[Dementia praecox])が起こります。デメンティア・プラエコクスのそもそもの原因はこれなのです。ですから、こう言うことができるのです、適切な教育はそれだけでもう良い薬である、と。したがって将来ーー私たちは現在、ヴァルドルフ学校によって努力してはおりますが、もっと初期の教育まではまだ広げることができず、六歳か七歳になってからようやく可能という段階ですーー、私が「精神科学の観点からの子どもの教育」(☆1)(*1)という小冊子で提示しましたような意味で、教育全体が、精神科学から得られる認識に貢献するようになれば、デメンティア・プラエコクスも消滅してしまうでしょう。なぜなら、教育をそのように形成すれば、人間が年をとってからの器官を早くに用いてしまうということ自体が阻止されるからです。これはまさにきちんとした教育ということに関連して言われなければならないことなのです。

 さて人生においては逆もまた存在します。逆のことというのは、本来青少年期にのみ器官の作用において展開されていなければならないはずのものを、私たちが(後まで)残しておくということです。主として子ども時代と青少年期のために存在している器官を要求するということは、全生涯を通じて起こっていることですが、それはまさに弱められた状態で起こってこなければなりません、さもないと有害な結果をもたらすからです。たとえば、きわめて多種多様な原因から、精神分析のようなものが今日人間の思考全体に入り込んで混乱させる可能性のある分野はここにあるのです。大きな誤りというのは本来もっとも有害なのではありません、大きな誤りはすぐ反駁されるからです。むしろもっとも有害なのは、いくばくかの真実が混じっている事柄です、なぜなら、そういう事柄は極端まで押し進められ、誤用されるからです。

 精神分析の軌道上を走る世界観が到来するためにいったい何が起こっているのでしょうか。やむをえないとはいえ、人間を外的な環境にまったく適合させない今日のさまざまに不自然な生活様式によって、子ども時代に人間に印象を与えるものの多くが消化されない、ということが起こっているのです。しかるべきやりかたで生体組織に編入されないものが魂生活に組み込まれたままになってしまうのです。と申しますのも、魂生活において作用しているものはすべて、まだ軽い作用であるとしても、持続していくものであり、あるいは少なくとも生体組織に対する作用にまでは持続していくべきものだからです。ところが、現代の子どもたちにあっては、魂の印象に留まり続けるほど異常な印象が数多く存在しているわけです。これらの印象が、すぐに器官的印象へと転化することは不可能です。そうすると、これらは魂の印象として作用し続け、人間の発達全体に関与する代わりに、分離した魂衝動であり続けるのです。これらの印象が器官の発達全体に関与したとすれば、つまり分離した魂衝動のままでいなかったとしたら、これらの印象はのちの人生において、本来高齢のためにのみ存在していてもはや青少年期の印象を役立てるために存在しているのではない器官を用いるようなことはないでしょう。こうして人間全体において不都合が生じているのです。魂的な分離が、もはやそのためにはふさわしくない器官に作用を及ぼさざるをえないということになります。ここで生じているのは、実際のところ精神分析的方法を正しく適用すれば確認できる現象です。人間というものを教理問答的に診断すれば、その人の魂生活のなかに、消化されておらず、これを消化するためにはもう老いてしまった器官のなかで破壊的な作用をするようなある種の事柄を見つけだすことができます。しかし重要なことは、この道を通ってはけっして治療には到達できず、単に診断にいたるだけだということです。この場合精神分析を単に診断としてのみ用いるという立場を維持するなら、ある種正当なことを行なっていると言えるでしょう、折り目正しく実行され、私に寄せられたありとあらゆる手紙によって裏づけられるようなことが起こらないなら、すなわち、精神分析家たちは、教理問答的診断においてあらゆる可能なことを患者から力ずくで引き出そうとして、そういう患者の発言を、実際スパイのように監視人さえ使って、あらゆる可能な状況を通じて、監視人によって獲得しようとしている、というようなことが起こらないなら、ということです。こういうことは実際しばしば起こっているので、こういう事柄すべてにひどい不正が隠れているのは当然と言えるほどです。けれどもこの点を度外視すればーー実際のところ、こういう事柄においては、こういうことにたずさわるひとたちの道徳的な状態が非常に重要なのですーー、こう言うことができます、診断上では、精神分析にもいくらか真実が含まれている、しかし、精神分析家がとろうとする道において、治療上でも作用を及ぼすことは決して不可能である、と。これもまた時代の現象と関わりのあることです。

 唯物論の悲劇は、唯物論が物質[Materie]の認識からそれていること、物質の認識を妨げることです。つまり唯物論は、霊的なものの本来の認識にとってというよりも、物質的なもののなかにある霊的なものの認識にとって有害なのです。霊的な作用はいたるところで物質的なものと結びついている、だからほかならぬ物質的なもののなかに霊的な作用を探究できるのだ、という直観が阻まれることによって、人生に対する健全な直観のためには阻まれてはならないことが数多く阻まれてしまうのです。私が唯物論者だとしても、私たちが今回の考察において議論してきたような特性をすべて物質に帰するなどどいうことはできません。物質にそなわっているあれこれの特性をその物質に帰するというのはすべてばかげたことにみえるでしょう。つまり、まさにこういう物質的なものの認識からそれているということです。もはや、燐的な現象や塩のような現象については語られません、こういうことはすべて、ナンセンスだと見られているからです。まさに、物質的なもののなかの霊的なものの認識ということからそれているのです、そしてそれによってさらに、形成作用をきちんと研究する可能性からも隔たっていき、とりわけ、本来人間の器官はいずれも、二重の課題、ひとつは意識へと方向づけることと関連し、もうひとつはその反対の方向、単なる器官的プロセスへと向かう二重の課題を有している、ということを洞察することから離れていきます。

 こういう見解はとりわけ、私たちがこれからさらに議論していきます分野、つまり歯というものを判断する分野において失われてしまいました。歯というものはまさに多かれ少なかれ唯物論的に、単なる咀嚼器官[Kauwerkzeuge]と見られています。しかし歯は単にそういうものではないのです。歯が二重の性質をもっているということは、歯を化学的に調べるだけでも、歯が骨組織と関わりのあるものとして現われている、ということから明白となります。けれども発達史的には、歯は本来皮膚組織から発しているのです。まさに歯は二重の性質を持っているのですが、ただ第二の性質はきわめて深く潜伏しているのです。一度動物の歯列を人間の歯列と比較してみてごらんなさい、そうすれば、私がここで最初の時間にお話ししたことが、動物の歯列においても強く現われていることがおわかりになるでしょう、私がサルの頭蓋骨全体によって示そうとした、あの下へと負荷がかかっているということです。人間の歯列においては、歯列そのもののなかにある種のしかたで、垂直線の作用、とでも申し上げたいものが見られます。これは、歯というものは事実単に咀嚼器官ではなく、本質的な吸収器官であり、歯は第一に外へ向かって機械的に作用するけれど、第二には歯のなかには、内に向かう精妙な霊化された吸収作用がある、ということと関連しています。そこでこう問わなければなりません、いったい歯は何を吸収するのか、と。歯はつまり、根本的にそうできる限り、フッ素[Fluor]を吸収しているのです。歯はフッ素を吸収しています、歯とはフッ素吸収器官[Fluorsaugapparate]なのです。つまり人間は非常に微量のフッ素を生体組織内に必要としていて、フッ素がないとーーさて、皆さんにショックを与えるかもしれないことを申しあげなくてはなりませんーー、人間は利口になりすぎるのです。人間はあまりに利口になってしまうのです。人間はほとんど自らを破壊しかねないほど利口になってしまいます。つまり人間は、私たちが人間であるためにとりもなおさず必要な適度な愚かさ、この愚かさに作用するこのフッ素作用によって和らげられるのです。人間はあまりに利口になることへの絶えざる対抗手段として、微量のフッ素を必要としているのです。ですから早くに歯が悪くなること、これはフッ素作用が損なわれることですが、これはフッ素を吸収する歯の作用が過度に用いられていることを暗示していて、人間が何かを通じてーーこういう事柄についてはもう少しお話ししていきましょう、そのための時間は十分ではありませんがーー愚かさに対抗して自らを助けるきっかけが与えられていることを示しているのです。つまり人間は、このフッ素作用がそのひとをあまりに愚かにしてしまわないように、いわば自分の歯を壊すのです。このきわめて微妙な関連について考えてみてください、ひとはあまりに愚かになってしまわないために、損なわれた歯を獲得するのです。このことから、一方において人間に利益をもたらすものと、人間に害をもたらしうるものへと揺れるものとの間の密接な関係を見て取ることができるでしょう。私たちは、あまりに利口になりすぎないために、ある状況においてはフッ素作用を必要としています。しかしフッ素作用を強くしすぎることによって自らに害を及ぼす可能性があるときは、私たちは器官の活動を通じて歯を破壊するのです。

 これらはぜひ皆さんによく考えていただきたい事柄です、なぜならこれらは、人間の生体組織におけるきわめて意味深い事柄に関連のあることだからです。

■原註

☆1「精神科学の観点からの子どもの教育」(1907)は「ルツィフェルーグノーシス、論文集1903〜1908」(GA34) に収められているが、個別小冊子としても何度も出版されている。最新版は1985年。 

■訳註

*1「精神科学の観点からの子どもの教育」は、1906年の年末から1907年初頭にかけて、ドイツの諸都市で行なった講演内容をもとに、シュタイナーが論文形式に改めたもので、まず雑誌「ルツィフェル・グノーシス」に発表された後、単行本としても何度か出版されている。邦訳は「霊学の観点からの子どもの教育」(高橋巌訳 イザラ書房)。


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