ルドルフ・シュタイナー

内的霊的衝動の写しとしての美術史

 GA292

yucca訳


第1講-3

ドルナハ  1916/10/8

 

   49  マゾリーノ  ヘロデの饗宴

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 これはカスティリオーネ・オローナ洗礼堂のものです。

 さて、ここで私たちは発展において少し前進しましょう。今、このように言うことができます、以下のこの発展は、そもそもジオットがその偉大な創始者であった潮流に基づく衝動から発したのだ、と。私たちはますますいっそう、こう言うことが可能なら、ひとつの潮流において現実的(写実的)な要素がスピリチュアルな要素から解放されるのを見るのです。今やそこから二重の潮流が出てきます。ジオットにおいてはいたるところで、私たちが最後に見ました二枚の絵においてさえ、いたるところにスピリチュアルなものが入り込んでいます、と申しますのも、教会の統治として世界中に行き渡るこの衝動は、実際スピリチュアルにも考えられ、そして、構成のなかに置かれた個々の人物は徹底して、こう言えるようにとらえられているからです、ジオットは、アッシジのフランチェスコそのひとが生きたのと同様に、人間の魂を通じてのみ現実に即して地上に向けられる霊的世界のなかに生きていた、ジオットも、彼の弟子たちも、愛にあふれたしかたでこの世の事物を写実的にとらえたけれども、彼らはスピリチュアルなもののさなかに生きていた、そしてスピリチュアルなものは個々のひとつひとつの把握と一体化することができた、と。ここで十四、十五世紀に入っていって、個人的ー自然的なものを模写しようとする憧れが次第に解放されていくのを見ていきましょう、ジオットと彼の弟子たちが聖書の物語に取材した絵画もそうですが、従来の絵画のすべてがそうだったような、全体を強く眼中においてそこから個々の人物を取ってこようというのではもはやなく、個人的ー自然的なものを模写しようとする憧れです。私たちは、いわば魔法の息吹のように絵全体を貫いていたこの基本衝動から、個々の人物が解き放たれるのを見ます、私たちは、たとえ構成のなかにまとめられているにしても、すべての人間が常に個として立っているのを見ます。そしてこのように私たちは、たとえばここにも、壮麗な建物を見ますが、さらに、芸術家がもう疑いもなく、人物たちをひとつの根本思想、芸術的な根本思想のなかに置くのではなく、人物ひとりひとりを、個人的な人間として、ひとつの個として描こうと苦心しているようすを見るのです。私たちはますますいっそう、ともかくも組み合わされた個々人が登場してくるのを見ます、なるほど構成は何か壮大なものを有しているとしても、やはり、ひとつひとつの個が、絵全体を貫いて放射する思考からは自然主義的に解放されているのがわかります。

   50   マゾリーノ  キリストの洗礼

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 つまりこのような聖書的な絵画においてすら、まったくもって、ひとりひとりの人物のなかに、基本思想から表現が解放されているようすをごらんになることができます。ここで以前の絵画におけるよりずっと重要なことは、人間的ー個人的なものがキリストを通じて表現されるようにキリストを形作ることなのです、そしてこれはほかの人物の場合にも、私たちが前にみた絵の場合よりもずっとあてはまります。

   21   ジオット         キリストの洗礼

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   51   フィリッピーノ・リッピ  聖ベルナルドのヴィジョン

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 ここではもう絵全体を貫いて放射する全体性を感じられないかもしれません。反面、まさにこのフィリッピーノ・リッピにおいては驚くべきしかたで顔貌が表現されているのをごらんになるでしょう、中心人物そのひとにしても --ヴィジョン的なもの-- も、脇役においてすらも、いたるところで人間的なものが前面に出てくるのを。私たちは、私たちが拠り所とした潮流から、徹底して現実的なもののなかに入り込んでいって、そのような事物をこのようにすばらしい内的な完成へと導くひとつの潮流が発するのを見るのです、ちょうどこのようなヴィジョンを感じるベルナルドそのひとのように。

   53   マザッチオ   貢の銭

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 ここではごらんのとおり人間の感情が非常に興味深く進展しています。このマザッチオをよく見てくだされば、みなさんもキリストの弟子たちのなかでキリストそのひとの回りに集まっているひとりひとりの頭部に対して、関心をお持ちになるかもしれません。そして、キリストももう個人化されているのをごらんください。私たちが前に見ました絵画とこのような絵画との間にある、特徴づけという点での力強い進歩のことを、考えてみてください。けれどもまた同時に、以前の感情から今移行した感情が、キリスト教的な世界把握においていかに完全に開花したか、この感情がいかにローマ的、つまり新たに到来したローマ的な力の概念に移行したかもごらんください。この、形態の構成のなかに、ひとつひとつの、個人的な形姿の表現のなかに、ローマ的な力概念がいかに現れてきているか、感じ取ってください。前にみなさんは教会の統治がスピリチュアルなものとして絵の上に注ぎ込まれたのをごらんになりました。

   44-46   ジオット派  教会の統治

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45

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 今、この(50){←(53)の誤植?}において、ほとんどの部分に見られるのは、とりわけ個性化された姿、力を得ようと欲し力のために手を組む人々ですが、前に見たのは、いわば稲妻のように顔を貫いて放射する何かスピリチュアルなものでした。個々のものは全体において理解されねばなりませんでした。ここでは私たちは、完成においてあるもの、言うなればひとりひとりの人間における内的な力展開においてあるものからのみ、生全体を統合することができます。この構成の大きさにも関わらず、私たちは、これらの姿が、力あるものを、当然のことながらその霊性を通じて力あるキリストを取り巻いて集まっているようすを見ます、とは言え、これらの人々そのものに、私たちはなるほどこの世によるものではない王国にいる、けれどもこの王国を支配しているのはこの世なのだ、ということが表現されているのもわかります、--霊性によってではなく、人々によって、ほかならぬこれらの人々によって表現されているのです。このように私たちは、人間的なもの、現実的なものがますますいっそう解放されるのを、そして、個人的なものを描き出す能力が増していくのを見ます。たとえば、聖人伝説にしても、その伝説のゆえに描かれるのではありません、聖人伝説は生き続けますが、--根拠に結びつけるよりはこれらの名高い物語に関連づけて--人間を描き出すために用いられるのです。

   54   マザッチオ    アダムとエヴァの追放

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 ここでみなさんは、いわば眼差しはもう完全に大いなる聖書物語に向けられているのではなく、アダムとエヴァが体験したようなことを体験した人間はどのように見えるか、ということに眼差しが向けられているのがおわかりでしょう。--そしてそれは言うまでもなく芸術的に偉大なしかたで答えられるわけです--当時においてはこれは当然のことでした。 

   58   ギルランダイオ  フランチェスコ・サセッティと息子の肖像

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 これに対しては、ほとんど申し上げるまでもなく、私たちは今ギルランダイオにおいてもう、純粋に人間的なものを通じて生きている人間を人間として描き出す能力が、一段階上昇した時代にいるのです。

   57   ギルランダイオ  晩餐

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 私たちは、晩餐がもはやそれだけでは描かれない時代に近づいていきます、以前の絵画つまり

   34    ジオット   晩餐

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 においてみなさんが見出すことができたように、この絵とともに、この晩餐に注がれる人間の眼差しは、この晩餐を通じて起こっていることを内部で活性化させますが、もはやそうではなく人間的なものを描き出すために晩餐についての物語が取り出される時代に近づいていくのです。後代の晩餐の絵におけるほどにはまだここでは表現されていないにしても、魂において解き放たれた印象のもとで人間的なものがどのように作用するか、ひとりひとりの弟子の顔貌を研究することがもう手がけられるようになっています。芸術上の思想全体の完全な変化を、まさにこのような絵画において見ることができます。

   48   シニョレッリ  アンチキリストの説教

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 この絵についても、今見ました絵についてとまったく同様のことが言えるでしょう。

   59   マンテーニャ  聖母

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 聖母の問題はつまり今や、聖なる事実というよりは、聖母のなかの女性的なものの描出ということの方が芸術家にとってずっと重要だ、と言うことができるものになります。聖人伝説は生き続け、そしてそれはよく知られたものであるがゆえに、写実的ー芸術的な問題を解決し、人間的なものを個人的に形成するために用いられます。

   60   マンテーニャ  セバスティアン     61   パルナッソス

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 さて、この芸術家においては、これはまさにこの絵においてありありと目に見ることができるのですが、実際もう人間的なものは、聖人伝説が採られる必然性がもはや感じられないほど強く写実的になっています。ジオット絵画においては、なにか非キリスト教的なものが入り込んでくるとはほとんど想像もできませんでした。それに対して、キリスト教伝説が、いわば人間的なものを描き出すための単なる機会にすぎないという形をとるようになったとき、この人間的なものを今やキリスト教伝説そのものからも解放することができるようになります。そして、キリスト教から解放されてゆくルネサンス的なものへの成長がもう見えていますね。

   63   フラ・アンジェリコ   十字架降下

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 さて、人間的なものの個人的な把握、地上的ー純粋に人間的なものの超感覚的なものからの解放をより精神的に描き出す写実的な方向性を、いくつかの絵画とともに逍遙したあとで、私たちは、フラ・アンジェリコのなかにその偉大な代表者を見出す別の潮流へと至ります。私たちが彼に見るのは、ひとつのより魂的な潮流とでも申し上げたいものです。私たちが今までその展開のようすを見たものは、より霊的なものに捉えられているのですが、他方フラ・アンジェリコにおいては、心情が、魂的なものが、人間のなかに入り込もうと試みているのが見られます。そして、いかにこの芸術家が、これほどすばらしい愛すべき絵画において、まったく別の側面から同じしかたで、個人的なものの把握に近づこうとしているか --まったくもってずっと魂的に-- を見るのは、興味深いことです。このことは、独特の、ここには再現できないフラ・アンジェリコの色彩にも見られます -- 彼の場合、すべてはまさに魂[Seele]から、より多く感じ取られるのですが、その他の写実的な潮流の場合、自然に即したものを模して創造する精神(霊・ガイスト[Geist])から、そこに解放として現れるものが表現されます。

   64   フラ・アンジェリコ   磔刑

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 いわば魂という迂回路をとって、キリスト教の魂的なものが、フラ・アンジェリコを通じて今入り込んできます。そしてこのことがまさにフラ・アンジェリコという現象において興味深いことなのです。私たちが見ましたように、以前は、超感覚的なものー霊的なものがキリスト教のの発展を貫き、そして芸術をも捉えていました、次いで、人間が自然へと向けられ、魂的なものという迂回路をとって自然へと向けられ、そしてアッシジのフランチェスコのなかに宗教的な熱狂としてのみ生きていたのと同じ衝動が、まずジオットのなかで育成されましたが、その観ること(シャウエン[Schauen])はますます外的な自然主義へと駆り立てられ、そして今、いわば内なる生が、写実主義に対して魂的なもののなかに救済され、これはまたも個人的なものを薄れさせようとする傾向ではあっても、それだけいっそう、外的にも魂的なものとして表現しようと努めます。と言いますのも、フラ・アンジェリコの場合、個別的なもののすべてから魂的なものが働き放射しているからです。キリスト教の魂的なものがフラ・アンジェリコのこれらの絵画のなかへと逃れ入り込んでいます、これらの絵画はいたるところに広まりましたが、もっとも見事なものはフィレンツェのドミニコ会サン・マルコ修道院に見られます。私たちは、超感覚的なものを観照する際に働く精神、この精神が、自然物の観照のなかへと注ぎ出したのを見ます。魂はこの芸術方向のなかに逃れ、表現に刻印された顔貌、表現に刻印された精神を捉えるよりは、表現を通して働きかける魂的なものを捉えようとしたのです。

   65   フラ・アンジェリコ   晩餐

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 私たちが見ました先ほどの《晩餐》を思い出してくだされば、

   57   ギルランダイオ   晩餐

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 ここでは実際、自然はいかに霊的に作用するか--自然は、ある特定の出来事において人間が体験するものを、いかに外から人間に刻印するのか--という問いに対する答えに到達したわけですが、ここでは(フラ・アンジェリコにおいては)すべての形姿がいかに”ひとつの”感情に集中されているか、しかもこの魂的ー個人的なものが個々の形姿のなかにいかにじゅうぶん具現されているか、おわかりでしょう。ここでは魂が魂的なしかたで生きています。以前の絵画(55)においては、自然主義的に表現されて、精神(霊)が生きていました。この(66)においてみなさんは、このことを筆致に至るまでごらんになれるでしょう、この驚くべき柔らかな筆致を、ただごらんください、そしてこれを前の《晩餐》と比較してごらんなさい!

   67   フラ・アンジェリコ  マリアの戴冠

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 魂めいたものの何という魔法の息吹がこの絵に注ぎ出されていることでしょう!

   68-69   フラ・アンジェリコ  最後の審判

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   70     ボッティチェリ    若い娘の肖像

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 ここで興味深いのは、フラ・アンジェリコに見出されたのと同じ衝動が、ボッティチェリにおいては、まったく異なった芸術上のテーマに移行している、とでも申し上げたいことです。ボッティチェリもまたある関連において徹底して魂的なものの画家です、けれども彼は魂的なもののなかで、フラ・アンジェリコにおいて具現されている宗教的な全ー魂感情から、人間的なものを、またも自然主義的なものの方へと解放するのです。

 このような頭部を、先ほど見ましたギルランダイオのものと比べてごらんになると、

   58   ギルランダイオ   肖像

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 いかにギルランダイオでは霊的なものが自然主義的なしかたで表現されているか --この(70)においては、筆致に至るまで、とほうもなく魂的なものが見られます-- おわかりでしょう。

   71   ボッティチェリ   王たちの礼拝

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   72   ボッティチェリ   追悼

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   73   ボッティチェリ   マリアの戴冠

73

 今、ボッティチェリからフラ・アンジェリコへとつながる系列を見たわけですが、これはマザッチオやギルランダイオにおいて見出しました精神との対照で、魂的なものを描く上での進展を私たちに作用させてみるためです。これらが、ジオットから発し、もうひとつの領域ではギベルティとドナテッロを経てこれら後者の画家へとつながってくる二つの潮流なのです。

 さて、今度は発展を前に進んで、これらの前提からルネサンスの偉大な画家たちに移り、そのうちさらにいくつかの絵画を私たちに作用させてみましょう。この(73)のような絵を前にしてみますと、私はこう申し上げたいのですが、十四世紀から十五世紀、さらには十六世紀へと至るこの時代に、霊的に観照されたもの、つまり全体として霊的に観られていたものの描出から、人間的なものへという進行が、まったく並はずれて集中的なしかたで起こったようすがわかります。ギルランダイオ(54,57)のような画家の場合、私たちは、霊的なものが自然のなかに取り入れられ、表現において、表現することにおいて、高い段階にもたらされているのを見、この(73)では、もうひとつの潮流において、魂的なものが筆致のなかに至るまで表現されているのを見ます。私たちはいわば、時代の経過のなかで、人間の形姿の認識、人間的表現の認識が、この時代に地球が天から獲得されるように、人間によって獲得されていくようすを見るのです。私たちはさらに、キリスト教の原理によって代表されるあの深まりが、ますますいっそう背景に退いてゆく、とでも申し上げたいようすを見ます、そして今や人間を人間そのものとしてもっと深いしかたで理解しようとする一方、天的なものは前進していくためのひとつの道とみなされました、人間の内なるもの、それは表現され、人間の外なるものと、人間の共同生活において人間の外なるものに関わるもののなかに刻み込まれるのですが、そういう人間の内なるものを表現するためのひとつの道とみなされたのです。きわめてさまざまな道における人間的なものの獲得--これがそもそも、ここでこれほど見事に私たちの前に立ち現れてくるものなのです。


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