ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

第八章「人生の諸要因」


 この章から第二部の「自由の現実」に入ります。

 この章の最初で、第一部で論じられてきたことのポイントがあらためて提示されています。

世界は人間の前に多様な個別存在の総計となって現われる。人間もそのような個別存在の一つである。このような世界の形姿をわれわれはもっぱら外から与えられたものと考えている。そしてこの世界を意識の働きによって発展的に捉えることをせずに、もっぱら眼前にあるものとして受け取るとき、それは知覚内容と呼ばれる。(P157)

 人間は世界のなかで個別存在の一つとして現われています。個別存在というのは、もちろん人間だけではなく、動物や植物、鉱物など、あらゆるものがそうです。世界はそうしたさまざまな個別存在として現われており、そうした個別存在をすべて合わせたものが「世界」なのだといえます。そうした個別存在の現象している世界は、私たちの前に知覚内容として現われます。この知覚内容というのは、第四章で説明されていたように、いまだ概念と結びつけられることのない直接的な知覚対象のことです。

われわれは自分自身をもそのような知覚世界の中に見出す。この自己知覚は、その知覚の中心から別の事実が現われてこなかったならば、他の無数の知覚内容の一つでしかないであろう。それは知覚内容一般、つまり一切の知覚内容の総計をわれわれの自己知覚の内容と結びつけることを可能にしてくれるような何かである。その何かは単なる知覚内容ではない。他の知覚内容のように眼の前にただ見出されるだけでもない。それは活動を通さなければ見出されない。それはまずわれわれ自身の自己知覚と結びついた現われ方をするが、内的意味からすれば、われわれ自身を越えた働きをする。それは個々の知覚内容に全体性の理念を付与するので、その結果、知覚内容は互いに連関しあうようになる。また自己知覚によって獲得されたものにも、他のすべての知覚内容と同じ仕方で、理念的性格を与え、それを主観もしくは「自我」として、客体に対比する。このような何かとは思考のことであり、理念的性格とは概念であり理念である。したがって思考ははじめは自己知覚の中に現われるが、単に主観的な現われ方をするだけではない。自己は思考の助けを借りて、自分を主観として表わすのであるが、自分自身と思考との関係は、われわれの人格の大切な人生課題なのである。この関係を通して、われわれは純粋に理念的な存在となり、この関係を通して、自分を思考存在と感じる。(P158)

 そうした知覚内容のなかには、外的世界だけではなく、自分自身も含まれています。その際、「思考」の働きによって、すべての知覚内容を自己知覚と結びつけることによって「主観」もしくは「自我」が現われ、外的な知覚内容に向かうことで「客体」が現われます。つまり、思考とは、知覚内容と概念とを結びつける働きをもっていて、それが外的対象なのか自己なのかによって、客観及び主観となるわけです。

 その思考と自分自身との関係によって、私たちは自分を「思考存在」と感じるのですが、それだけでは、私たちは単に「認識する存在」「知識を持つ存在」であるにすぎなくなってしまいます。

この人生課題は、そこに別な種類の自己規定の仕方が付け加わらなければ、純粋に概念的、論理的な課題であるに留まったであろう。そしてわれわれは、知覚内容相互の関係や知覚内容とわれわれとの関係を純理念的に作ることで、人生が汲み尽くされてしまうような存在となったであろう。思考によるそのような関係の確立は認識と呼ばれ、認識によって獲得されたわれわれの自己の状態は、知識と呼ばれる。上に述べた課題だけが実現される限り、われわれは単なる認識する存在、あるいは知識を持つ存在であるに留まる。(P158-159)

 私たちが単なる思考する理念的存在にすぎないのであれば、そこには「生き生きとした」要素が欠けてしまいます。しかし、思考を単にそうしたものとしてとらえることは、「死んだ抽象物」「生きた思考の死体」としてとらえることになります。しかし、「生きた思考」はそうしたものではありません。

 思考の本質を観察を通して理解することの難しさは、次の点にある。すなわち、思考に注意を向ける魂にとって、思考はすでにあまりにも容易な仕方で正体を現わしているのである。しかもその場合の思考は魂にとっては死んだ抽象物、生きた思考の死体でしかない。そのような抽象物だけに目を向けていると、感情神秘主義や意志形而上学の「生き生きとした」要素の中へ入っていきたくなるに決まっている。「単なる思考内容」の中に現実性の本質を見出そうとする人がいるとすれば、それは奇妙な態度だと言わねばならない。けれども本当に思考を生かそうとする人はどんな感情の動きも、どんな意志の自覚も、この思考活動の中にある内的豊かさや、静かで同時に動的な経験に比較できるようなものを持ち得ないことに気づく。まして感情と意志が思考の代行をすることができるとは思えなくなる。そしてこのような豊かさ、体験の内的充実があるからこそ、通常の思考がかえって抽象的で死んだもののように思えるのである。(P163-164)

 思考を死んだ思考としてしか見出し得ないがゆえに、「感情神秘主義」や「意志形而上学」にその生きた要素を求めるのですがそれは生きた思考と死んだ思考の違いがわからないがゆえのものだといえます。生きた思考は、とても豊かな生命をもっているのであって、感情や意志でその代わりをすることはできないというのです。

 本質に即した思考に向かう人は、思考そのものの中に感情と意志とを共に見出すのである。感情も意志も、現実の深みの中に存在している。思考から離れて、「単なる」感情と「単なる」意志に向かう人は、感情と意志の真の現実的性格を奪ってしまう。思考を直観的に体験しようとする人は、感情と意志の体験にも適応するであろう。しかし感情神秘主義と意志形而上学とは、直観的な思考による存在の把握を体験することができない。この両者はあまりにも簡単に、自分が現実の中に立っていると思いこんでいる。そして直観的な思考が感情を持たず、現実から離れて、「抽象的な思索」の中で世界像の冷たい影絵を作っていると思いこんでいる。(P164-165)

 生きた思考、「本質に即した思考」には、思考そのもののなかに、感情と意志を見出すことができます。思考を除いた感情や意志には、むしろ感情や意志の「現実的性格」が欠如しているのです。「感情神秘主義」や「意志形而上学」は、生きた思考、直観的思考の豊かさを誤解しているのだといえます。それらは、直観的思考による存在把握を体験できません。

 人生の中で豊かな経験を得るためには、すぐれた感覚能力によって得られる豊かな知覚内容と豊かな概念を思考によって結びつけることが必要です。すぐれた感覚能力をもっていても、概念の貧困な方や、概念を多く有していても感覚能力の貧困な方は、経験そのものが貧困になってしまいます。

 生きた人生経験を得ることのできる思考は、その思考そのものに感情と意志の豊かさを有しているのだといえます。思考の欠如した感情と意志によっては、経験そのものの現実性を獲得できないのです。

 さて、ここで上記でふれられていた「感情神秘主義」及び「意志形而上学」(意志哲学)について、その概略を見ておくことにします。

 まず、感情神秘主義について。

 主観の世界における感情は、客観的世界における知覚内容とまったく同じものである。素朴実在論の根本命題によれば、知覚されるものはすべて現実的であり、それ故感情は自分の人格の現実性を保証する。けれども本書が問題にする一元論は感情に対しても、知覚内容を完全な現実にしようとするときにどうしても必要だったあの補足を加えようとする。一元論の場合、感情はまだ不完全な現実なのである。それはわれわれに外から与えられたままの存在形式しか持っておらず、もう一つの要因である概念や理念はまだその中に含まれてはいない。(略)素朴な人は感情の中でこそ現存在が直接現われ知識の中では間接的にしか現われない、と信じてしまう。したがって感情生活を育成することが何よりも重要だと考える。そのような人は世界の意味関連を感情的に把握したときはじめて、この関連を本質的に理解できたと信じる。そして知識ではなく、感情を認識の手段にしようとする。感情はまったく個的であり、その意味で知覚内容に似ているので、感情哲学者は自分の人格の内部でのみ意味を持つような個的原則を世界原則にしてしまう。彼は全世界を自分の自我の色で染め上げようとする。一元論者が概念によって把握しようとする事柄を、感情哲学者は、感情によって獲得しようとし、対象と自分との感情的な関わりをその最も直接的な関わりであると思っている。

 今述べた感情哲学の方向はしばしば神秘主義と呼ばれている。もっぱら感情の上に打ち立てられた神秘主義の立場の誤謬は、知るべきである事柄を体験しようとし、感情という個的なものを普遍的なものにまで引き揚げようとする点にある。(P159-160)

 感情神秘主義においては、感情を認識の手段にしようとします。感情は個的なものであるにもかかわらず、それを普遍的なものにまで適用しようというのです。そこでは、感情のなかでこそ、真の現実が獲得できると信じられています。

 続いて、意志哲学(意志形而上学)について。

 意志もまた知覚内容なのであるが、それは自我を個的に関係づけることの知覚内容である。意志における純理念的な要因でない部分は、何らかの外界の事物と同様に、単なる知覚対象である。

 それにも拘わらず、素朴実在論はこの場合にも、思考を通して獲得できるものよりもはるかに現実的な何かを眼前にしていると信じるかもしれない。素朴実在論は、出来事を概念によって把握する思考とは反対に、出来事や因果関係を直接知ることのできる働きを、意志の中に見るであろう。(略)自我の内部に意志が現われるときの存在形式は、この立場にとって、世界の現実原則になる。自分の意志が普遍的世界事象の特殊な事例のように思われる。感情神秘主義の場合に感情が認識原則になっているとすれば、この場合には意志が世界原則になっている。このような立場が意志の哲学(テリスムス)である。(P160-161)

 意志哲学(意志形而上学)の場合が、意志を認識の手段とし、それを世界原則にしようとします。意志の中でこそ、真の現実が獲得できると信じているのです。

 感情神秘主義も意志哲学も次のような共通の欠点を持っている。ーーわれわれの認識は二つの源泉を持っている。すなわち思考と知覚である。後者は感情と意志の中で個的な体験となる。知覚の源泉から流れ出る体験はこの二つの世界観の中では、もう一方の認識源泉である思考から流れ出るものと合流できない。知覚と思考という二つの認識方式は、高次の媒介なしに並存し続ける。知識によって獲得される観念原則と並んで、思考によっては把握されないで、もっぱら体験されるだけの現実原則が世界認識のために存在しなければならないというのである。この主張を別な言葉に置き換えるなら、感情神秘主義と意志哲学は素朴実在論であるということになる。だからこそ、両者は共に直接知覚されるものだけが現実なのだ、という命題に従っている。本来の素朴実在論に比べてこの両者は、ただ首尾一貫していないという点だけが異なっている。なぜなら知覚形式にすぎない感情もしくは意志を、存在のためのただ一つの認識手段にしようとしているからである。つまりこの両者が、一般に知覚され得るものだけが現実なのだ、という根本命題に従うときにのみ、今述べた論拠は意味を持つのである。(P162)

 感情神秘主義も意志哲学も、「知覚形式にすぎない感情もしくは意志」を「ただ一つの認識手段にしようとしている」素朴実在論ということになります。この両者は、知覚され得るものが現実だということが成立するときにのみ意味を持つのだということができます。しかし、その現実認識は、体験されるものだけを根拠としていて、知覚と思考が切り離されているがゆえに、確かな認識であるということはできません。

 私たちの認識の源泉は「思考」と「知覚」です。感情神秘主義も意志哲学も、その知覚の感情及び意志のみを認識の根拠としているがゆえに、不十分なものであるということができます。

(第八章・了)


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