風のトポスノート833
両方だよ!」で、「どちらか」を乗り越えること
2013.6.18



ほぼ日の糸井重里「今日のダーリン2013.6.18」の「両方だよ!」ということに、とても共感したので少し。

世の中、好きか嫌いか、賛成か反対か、正しいか間違っているか、白か黒か・・・といった「どちらか」があまりにも多すぎるのではないかと常日頃から感じている。もちろん、黒か白かでなかったら灰色なのかというとそういうのでもない。黒でも白でも灰色でもない。そして、ある意味、黒でも白でも灰色でもある。

もちろん、今書いていることのように、なにかに同意したり、共感したり、逆に反対だと思ったり、嫌悪を感じたりもするわけだけれど、そのときにも100%ピュアにそうだというわけでもない。もっと別の見方もそこにはあるだろうし、少しだけ角度を変えた見方をすることもある。

ぼくの嫌いなシーンのひとつに、AかBかということでどちらかの立場に身を置いてそれぞれがディベートするというのがある。そうしたい人はそうすればいいだろうけれど、そういうのをたまに目にしたりしたときよく思うのは、むしろ必要なことは、視点を「どちらか」にするのではなくて、ひょっとしたら別の視点もとることができるのではないか、あるいは、二次元的には解決できないかもしれないけれど三元的に見ればどちらの視点も含み込んだ視点が可能になるのかもしれないのではないか。そうした創造的な見方を試みることなのではないかと思うのだ。

シュタイナーの『自由の哲学』で、自分の思考を閉じ込めているような「類」的なあり方から離れた思考を方向づけることなどについて論じられていたりもするけれど、たぶん、「どちらか」を自分に強要してしまうということは、自分を自分で閉じ込めてしまって、つまりは自分で自分の首を絞めて窒息してしまうようなことなんじゃないんだろうかと感じることが多い。

調査と称して行われるアンケートなるものも似たようなもので、いくつかに分類されたものを選べという。複数回答可だったり、自由回答だったりもあるが、自由回答にせよ、アンケートそのものがはめている枠を越えることはまずもってできない。それらは思考をパターン化することに役立つだけだと思う。マークシート方式の「問題」と称するものも同じ。そうすることで世界はパターン化されたカテゴリーのなかに見かけ上おさまって見えたりもするから困りものである。そのなかでは、「意見」は、A:○○%、B○○%、C:○○%・・・その他:○○%の世界として単純模型のようなものにされてしまう。

なにかを批判(というよりむしろ非難といったほうがいいかもしれないけれど)するときなども、人は自分をその非難する対象の反対のものとして分類していることになる。断固反対ということが自分になってしまう。白か黒かが自分になってしまう。そういう白か黒かが大好きな人を見ると、ぼくのなかの天の邪鬼はすぐに、黒でも白でも灰色でもないとか、黒でも白でも灰色でもあるんだ!と叫びながら、同時に白か黒かになってしまった人を見てとてもとても悲しくなってしまう。その人は、自分の可能性を半分にしてしまったということなのだから。半分なのに自分はむしろ正しいと勝ち誇っていたりもするくらいなのだ。

たとえば、戦争に反対しているときにでも、自分を単純に戦争に反対という半分の世界に閉じ込めてしまうとき、おそらく自分のなかにはそれとは逆の影ができていて、その影はどこかで自分にアンチをぶつけていたりするかもしれない。どんなに正しく見えることだって、そうした側面は否定できないのではないかと思う。戦争は争いである。そしてその争いは自分のなかにもある。「どちから」ということそのものが「争い」のひとつでもあるのだから。だから、老子は、汚いがあるから美しいがあるといったけれど、そのことを忘れてしまったとき、人はみずからの影をみないで外に「どちらか」を無自覚につくりだしてしまう。おそらく争いをなくすということは、みずからのなかの争いを克服するということからはじめる必要があるように思う。それをまったく顧みない人が主張する争いの否定は、どこか醜く見える。自分を争いの反対のものにするのではなく、みずからのなかの争いを認めた上で、単なる争いの反対のところではない場所を探す必要があるのではないだろうか。多くの場合、争いは自分だけを正しいと思っている人どうしがつぶかるところからはじまる。自分は白、相手は黒。そして相手も自分は白、相手は黒。その矛盾がエスカレートすることで、争いは顕在化する。

だれでも自分は正しいと思いたいのだけれど、そんなときこそ、その逆かもしれない可能性をちらりと横目でみてみる必要があるんだろうと思う。そのほうが、自分も相手も「どちらか」に閉じ込めなくてすむのだから。

*「今日のダーリン」は、「今日」と「昨日」のそれ以外はネット上では読めなくなりますので、(全部は避けて)以下、ピックアップして引用しておきます。
http://www.1101.com/home.html

「両方だよ!」と、こころのなかで、叫ばせてほしい。「両方なんだっつーの!」でもいい。片方のことだけだと思ってちゃ、だめなんだよなぁ。
男と女、という性別がある。男は、ただひたすらに男なのか。女は、まるまるぜんぶ女なのか。そんなこと、あるはずがないわけだ。男のなかに女はいるし、女のなかに男がいる。
(・・・)
大人であることと、子どもであることも、どちらかだけなんてことは、ありえない。矛盾? してないよ。たくさんの人びとが、どっちかに偏りすぎなんだよ。
(・・・)
正しいことのなかに、よくないことは含まれてるし、よくないことのなかにも、正しいことは見つかるだろう。(・・・)
マーブル状に混じり合ってるのか、ポン酢しょうゆのようにひとつになっているのか、チェッカーフラッグのように組み合わさっているのか、互いに互いを呑み込んでいるのか、わかりませんが、どっちかだけにしようとしたら行き詰まるに決まってる。
「両方だよ!」と、思い出すこと。いいところを見る、いいところを知る、そして使う。どっちかだけだと思おうとするから、不自由になる。