風のトポスノート830
高次の自然学と贈与の存在論のためのメモ
2013.3.14



■「中沢新一・國分功一郎『哲学の自然』(太田出版/20123.3.27)」と
  そこからのテーマ展開の試み

<引用部分(P.132-133)>
  中沢ー僕らはやはり、ドゥルーズ=ガタリの後に生まれた人間として何をしなければ
  ならないかを真剣に考えていかなくてはね。彼らが着想した自然哲学をつくり上げて
  いくこと、それには現代数学の中で起きている革命の意味をはっきりとつかみ出すと
  いうことが必要です。それは量子力学の中ではすでに起こっていることですが、いま
  数学で起きていることのほうが量子力学よりはるかにスパンが広大です。
  國分ー「自然哲学」という言葉はいま、ほとんど使われないし、何の内容もなくなっ
  てしまっていますが、もう一度定義し直してみたらいいと思います。いわゆる自然を
  考える哲学でもあり、本性を考える哲学でもあり、「自然(フュシス)」とは何かを
  考える哲学でもある、そうした広い意味での自然哲学の再構築をしなければいけない
  でしょうね。

◎対話者のひとり國分功一郎がスピノザやベルクソン、ドゥルーズを研究していたりもするので、先日来ここでぼくがメモしている「視覚の奥行きへ向かうためのエスキス」とも関連してくるところがあったりする。中沢新一の上記の引用も(ぼくには「現代数学の中で起きている革命」というのは具体的にはよく知らないが)とてもヌーソロジー的だ。

◎とはいえ、中沢新一の視点はこれまでもずっとそうだが(この引用ではまるで未来に向かっているように見えるのだけれど)、どこか「過去の叡智」に向かいすぎているところがあるのではないかとをいう印象がある。論点も引いているテーマもとても重要なのだけれど、それを料理するときに、「人類最古の哲学」という言葉で象徴されるように、石器時代以降から変わっていないとされる人間の知性等の物差しをあててしまうところがある。おそらく、「過去の叡智」からの呪縛がかかっていて(たしかにキリスト事件を理解できなかった、深い叡智をもった過去の秘儀参入者のことを連想したりもするが)、しかもある意味、実質的に「奥行き」を失ってしまった「自然」や「人間」の「幅」の世界だけの視点を持って「自然哲学」「哲学の自然」にアプローチしようとするものだから、どこか議論が深まっていないところがあったりもする。自分で自分の髪の毛をひっぱって自分自身と馬とを沼からひっぱりあげようという話をしているほらふき男爵(ミュンヒハウゼン男爵)の冒険のようにも感じてしまう。

◎扱っているテーマも使っている手法も語り口もとても魅力的なので、残念なところがある。しかしそのほらふき男爵の話を敷衍していえば、自分自身とそれがひっぱりあげようとしている自分の身体の関係をいちど切り離した上で、幾何学的に再構築することで、「ほら話」の「ほら」ではなく、「ほら、そうでしょう!」の「ほら!」にすることは十分可能なのではないかと思っている。つまり、そこに人間の認識様態(肉体・エーテル体・アストラル体・自我)の進化・変容という視点である。

◎本書には、ギリシア時代の「自然(フュシス)」の話がでてくるが、シュタイナーによれば、古代における「自然(フュシス)」認識は現代のような認識とは異なっていたし、哲学といってもエーテル的な認識を肉体から離れたかたちで持っていたという。人智学の哲学的課題のひとつは、自己意識的自我を持ってそのエーテル的認識を再獲得することだというが、その違いと「再獲得」というときの射程の違いを明確にすることで、「ほら!」になる可能性もあるのではないかと思う。

さらに、本書では重要テーマになっているのが「贈与」である。それについても少し。

<引用部分(P.35-36)>
  中沢ー人間は、「贈与」の次元とその切断の次元を、縦糸と横糸のように組み合わせ
  ながら生きる生物です。いま多くの人は、「贈与」という横糸を切り離してしまって、
  交換の縦糸だけでこの世界を構成しようとしています。しかし、これでは織物にはな
  りません。(…)
   資本主義のシステムは、「贈与性」をそぎ落とした「交換人間」を前提としていま
  す。人間の贈与的な部分をすべてそぎ落としてしまえば、たしかに合理的な個人とな
  るでしょうが、それでは人間という生物は成り立たないのです。

◎現代人は資本主義のシステムによって「贈与性」を失ってしまったという。ちょっと考えてみただけでわかるが、たとえば「お金」が至上の価値になってしまったら、「与える」という意味はそれまでとはまったく違ってしまい、数量化し、計測し、計算し、「交換」できるレベルのものになってしまう。

◎本書にも少しでてくるが、たとえばドイツ語で「es gibt」というのは「存在する」「ある」という意味だが、gibtというのはgebenつまりgive与えるということ。その三人称形。存在は与えられている。「それ(es)」が与えるわけである。原初的に与えられているのが「存在」である。存在の根源に「贈与性」がある。逆に言えば、「贈与性」を失った人間は「存在」を失ってしまうということにもなる。

◎そこに、「自然認識」が深く関わってくる。わかりやすく単純化していうとこうなるだろうか。かつては、自然と人間は切り離されてはいなかった。現代において、人間は自然とは切り離されている。だから、人間と自然との関係を再構築しなければならない。ここでポイントは、人間、自然というとき、それらを変わらないものとして図式的にとらえず、それぞれが変容するものとしてとらえる必要があるということである。石器時代の人間と現代の人間を同一の人間としてとらえるのではなく、歴史的に変容してきているととらえる。自然も同様で、変容する。では、そうした歴史的に変容する自然と人間の関係をどのようにとらえる必要があるだろうか。

◎ある意味、芸術の重要性は、ノヴァーリス的、シュタイナー的にいえば、高次の自然を創造する人間の営為ということにもとめられる。高次の自然の創造には、自然霊の解放というテーマも含まれる。そのために、人間には歴史的に形成されてきた自己意識的自我を持ちながら、あらためて自然に創造的に向かっていくことが必要になる。

◎「贈与」についてその視点から考えてみると贈与は芸術的な創造に関わってくることが見えてくる。
原初に与えられている存在性を展開させていくためには、贈与を基軸に置いたキアスム(交差配列)的な交換のあり方が必要となる。与えるものと与えられるものが可逆的に浸食しあいながら繰り広げられる贈与性。与えられてあるものが与えることによって与えられてあることを展開していく創造的変容。
それは単に、道徳的に必要だから与えるというようなものではない。与えるものは計量可能なものではなく「存在」であり、その「奥行き」。その意味で「お金」そのものが変容していく必要があるということなのかもしれない。「資本」も同様で、それは計量可能なものではなく、贈与による創造性がそこに内包されなければならない。
・・・そんなファンタジーを夢想してみたのだけれど、どうだろうか。