風のトポスノート829
機・間・位
2012.12.21



  光岡 実は武に時間は存在しません。武の本質は時の外にあります。だからこそ
  機と位と間が重要になってきます。
   機をだいたいは「タイミング」と訳してしまいますが、そうじゃない。タイミ
  ングだと時間の内にあります。
   機が時の外にあるというのは、どういうことかといえば、「それ以外にない」
  ということです。先も後もない。だからタイミングのように「合わせる」もので
  はない。
  (・・・)
  「〝その時〟に〝そこにいる〟ことが位を取るという意味です。だから、自分の
  中の位もあれば、そこから生じて対象との関係で生まれる位もあります。位が位
  置と違うのは、位は流動的であるということで、決して固定的ではありません。
   たとえば、地球と月との関係性はある法則で成り立っていますが、ひとときも
  同じ位置になく随時関係は変わっています。それが位です。その位にいるという
  ことが、機でもあるし、間でもある。(…)
  内田 間というのは、空間的な「ディスタンス」という意味ですか? それとも
  いわゆる時間的な〝あいだ〟ですか?
  光岡 どちらでもありません。なぜなら時間がないからです。私たちがディスタ
  ンスと言ったとき、無意識のうちにある区切りを設けていると思います。始まり
  と終わりみたいな位置を自動的に設けています。
   でも始まりと終わりがもたらす〝あいだ〟を先ほど言った位に置き直すと矛盾
  が生じます。なぜなら位は常に流動的なので、決して始まりと終わりといった固
  定的な位置を設けられないからです。
   距離や時間といった概念で間を測定すると、たちまちそれは思考によって対象
  化されてできた概念になり、〝その時〟に〝そこにいる〟現実とは関係なくなり
  ます。
   ですが、武で一番問われるべきは「まさにこの瞬間」です。それは対象化でき
  ない。繰り返しの効かない、「もしも」が通じない一回性のところにあります。
  (・・・)
   間は、仏教でいうと「空」にあたるでしょうね。(…)機と間と位というのは、
  三つの概念ではなく、ひとつのことを違う方向からとらえています。
  (内田樹×光岡英稔『荒天の武学』/P.137-13)

「武の本質は時の外」にあり、重要なのは「機」「間」「位」であり、
また「機」「間」「位」はひとつのことを違う方向からとらえているという。

時間が存在しないところというのは、
過去ー現在ー未来という直線上にはないところである。
「まさにこの瞬間」なのだが、
「瞬間」ということで私たちがイメージするような
ごく短い時間であるというわけでもない。
それはつかのまの短い時間だとはいっても、短い直線ではあるからだ。
ベクルソン風にいえば、「時間」ではない「持続」ということになるだろうか。

それは「まさにこの瞬間」ではあるのだが、
そこには「機」「間」「位」の拡がり、言葉をかえれば「奥行き」があるのだろう。
「まさにこの瞬間」の「点」の向こう、始まりもなく終わりもない奥行きに、
「機」「間」「位」の3つの軸をもった空の場所が拡がっている。
もしくは、その奥行きそのものの無常、
つまり変化しつづけている場所の位置が「位」であり、
そのなかで「機」と「間」がある。
「位」という場所において、そこでしかありえない場所が「機」であり、
それを関係性としてみれば「間」ということになるのかもしれない。
そしてその3つの軸は別のものではなく、まさに3つの軸をもったひとつ、
「まさにこの瞬間」という持続のなかで成立している流動的な場所。

こうした説明はぼくの勝手なイメージでの表象にならない表象なのだけれど、
こうした「まさにこの瞬間」は、「武」においてだけではなく、
ある種、思考を越えたところで体験されることもあるように思う。
なにか奥行きを持った点のような直観が訪れる。
まさに、訪れる。
それはすべてをふくんでいるが、ある種の潜在性のなかにある。
それを実際に展開し表現していくには、この時空においては、
それなりの時間が必要になるような点。
モーツアルトが、一瞬にして思い描いた曲を時間をかけて譜面にしてくような・・・。
もちろん、モーツアルトに訪れた点とは比べることはできないだろうし、
その質も大きく異なっているだろうが、
だれにでもそういう「点」は訪れているのではないかと思う。

たとえば、今こうして書いていることにしても、
書き始めた時点で、そのほとんどは書き終わったイメージとしてそれは訪れている。
実際、ここまで書いてきて(時間はそれなりにかかるのだけれど)
最初に点としてまさに点灯した内容は、
若干の変化はあるもののそう大きく変わってはいないように思う。
光の速度を越えるものはないという物理学上の考えがあるが、
ある意味、どんな人でもこの種の思考は高速を越えているところがあったりするように思う。
そもそも、即物的に落ちてはいるが「光速を越える」という思考さえ可能なのだから。