風のトポスノート825
ペルソナと意識
2012.11.22



想田和弘監督の平田オリザとその周辺をテーマとした『演劇1』『演劇2』も面白かったが、
その著書、『演劇 vs. 映画 ー ドキュメンタリーは「虚構」を映せるか』も面白く読んだ。
想田和弘の映画は、「観察映画」だというが、それが目指すものは、
上記の著書のなかに引用されている平田オリザ『演劇入門』に書かれている
「現代口語演劇」で目指すところと大きく重なっているという。

  それは、表現というよりは、描写、あるいは記述と呼ぶべき行為かもしれない。
  世界を、ありのままに記述したい。
  私の欲求は、そこにあり、それ以外にない。

そのために、相田監督は、一人でカメラ等の機材を持って、
平田オリザとその周辺をずっと撮影し続ける(描写する・記述する)が、
もちろん、その「観察」の主体である想田和弘という存在は、
通常の平田オリザとその周辺にとっては、ある種、異物でもある。
つまり、カメラをまわしつづける想田和弘の存在を意識しないわけにはいかない。
観察することで、観察される世界に多大な影響を与えるわけである。

ここからが面白いのだけれど、そういう想田和弘+カメラの存在を、
平田オリザは、ことごとく無視しつづけたらしい。
「あたかもカメラなどないかのような演技」を完璧に行っているということである。
それが意味することについて、想田監督は考え続ける。
そして、平田がワークショップで発言している次のようなことに注目する。

   大人はですよ、さまざまな役割を演じながら生きていますよね。(…)
  ところが子供に対しては、「本当の自分を見つけなさい」とか、
  「本当の自分の意見をいいなさい」と言うわけですよね。
   でも、本当の意見なんか言ったら困るじゃないですか、私たちは。(…)
   ま、これを私たちはよくタマネギの皮に喩えるんですね。(…)
  こういうのを演劇の世界では「ペルソナ」というふうにいいます。
  ペルソナというのは、仮面と言う意味と、パーソンの語源になった『人』
  という意味の両方を兼ね備 えているんです。要するに仮面の総体が人格なんです。
  だから私たちは演じる生き物なんですね」。
  (P.61)

このペルソナの考え方は、いうまでもないことではあり、
想田監督も、「むしろ、無数のペルソナの総体が「僕」である。平田に異論はない。」
というが、次のようにもいう。

   しかし平田オリザの、固くなるでもない、ハイテンションになるでもない、
  「カメラが回っていない時と変わらぬ全く自然な振る舞い」を、「演技して
  いないから自然」であると考えるのは(…)おそらく間違いである。(…)
  おそらく平田自身の「超リアル」な振る舞いも、極めて意識的に成し遂げられている。
  (P.63)

そして、想田監督自身の「観察映画」が前提としていたことに気づく。

  僕自身が「演技抜きの素顔」というものが存在することを前提に、それをとらえる
  ことをひとつの目標としてこれまでドキュメンタリーを撮ってきたことにも気づかされた。
  (P.64)

とはいえ、そうした平田オリザのペルソナを引きはがして、
「演技抜きの素顔」をカメラがとらえようとすることが
まったくできないとも考えていないようだ。
実際、映画に収められたシーンのなかでも、明らかに通常の顔とは
かなり異なった顔を見せてくれるところもある。
おそらくそれは、タマネギの皮には違いないとしても、
通常のペルソナよりももっと深いところにある
血の出てきそうな仮面だとはいえるのかもしれない。

本書の「終幕」でこのように書かれているのに共感する。

  日常生活で周りの人々や自分が醸し出す「演劇性」が気になって仕方がない。

しかし、おそらく問題はここからなのだ。
ペルソナに関する意識の重層性と階層、そしてそれに対する意識化の度合いである。

キ リストは十字架の上で
「彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」
と言ったわけだが、
自分の演技に自分で気づいている部分はいいのだけれど、
それにまったく気づけないで、それを自分そのものだと思い込んでいる場合もある。

また、意識はしていてかなり演技でやってはいるのだけれど、
その演技がかなりエゴイスティックな利害やある種の「主義」のためのものだった場合、
かなり始末に負えないところがある。

シュタイナーが「アーリマンは書くのです」と言っているようなことも同様で、
自分がやっていると思いつつ、その主体は実は別のところにいる・・・
ということも往々にしてあるのだから。

そう考えていくと、とてもむずかしい問題に行き当たる。
自分のペルソナはいったいだれのペルソナかという問いである。
仮面の穴という小説もあったが、仮面を蓮したら外したら、
そこには虚無がひろがっている・・・というともある。
そして、ときには、そこから別の暗い笑いをもった別のペルソナが現れることもある。