風のトポスノート822
「ザ・何か」としての「本質」
2012.8.20



   哲学とは物事の本質を解明しようとする学問であると言われたりすることがあるが、
  むしろ、「本質」なるものを発明したときに哲学が誕生したのだと言った方が適切かも
  しれない。本質などというものは哲学者がでっちあげたものにすぎないということでは
  なくて(…)、本質なるものを答えとして要請する問い方を発明したときに、哲学は生
  まれた。
   「本質」は、ギリシア語で「ト・ティ・エーン・エイナイ」という。この語の正確な
  成り立ちについてはわからないところが多いのだが、アリストテレスもしくはその周辺
  の人たちによる造語と考えられている。語形としては、「そもそもそれは何であるか」
  という疑問文に定冠詞をくっつけて名詞句にしたもので、日本語には冠詞がないから英
  語の“the”を借りれば、「ザ・何か」となる。何であるかという問いに、「まさにこれだ」
  と応じられる答え、それが本質である。実際、この「ト・ティ・エーン・エイナイ」と
  ほぼ同じ意味で使われることの多い「ト・ティ・エスティ」という言い回しは、ほとん
  ど逐語的に“the what is it”という英語に置き換えることができる。(・・・)
   こうした事情は「本質」だけでなく、たとえば「量」や「性質」といった言葉につい
  ても同様で、ギリシア語の「性質(ト・ポイオン)」は「ザ・どんな」、「量(ト・ポ
  ソン)」は「ザ・どれだけ」という言い方からできあがっている。つまり、量とは「ど
  れだけ」という問いに、そして性質とは「どんな」という問いに答えるものにほかなら
  ない。本質や性質とは、私たちの問い方によって捏造されたものだということではない
  が、しかしまた、私たちの問いとまったく無関係に本質や性質があるわけではない。物
  事の側に根拠をもちつつも、私たちの問いかけによって析出されてくるもの、そうした
  ものこそが本質や性質であるということに留意しておこう。というのも、本質や性質と
  いう言葉で訳してしまったとたんに問いの形が見えなくなって、まるで答えだけが存在
  しているかのような錯覚を抱いてしまうからである。
  (富松保文『アリストテレス はじめての形而上学』NHK出版/2012.6.30発行/P.63-64)

日本語で「本質」と訳されているものは、
すでにギリシア語からラテン語の「エッセンチア」(キケロ)に訳されたときに、
「問い」としてのあり方を失ってしまっているそうだ。
本来、「ザ・何か」への応答である「本質(ト・ティ・エーン・エイナイ)」。

「考える」ということの基本は、そのように常に「問い」からはじまる。
最初から「答え」が用意されていて、その「答え」を覚えることで、
なにごとかを理解したような気になっていることを「考える」とはいわない。

なにかを理解しようとするとき、
最初にそこに決まったもの(固定的な本質のようなもの)があって、
それをありがたく、疑いもなく受け取ってしまい、それに従うことは、
すでに、本来の「本質」的な部分から遠ざかってしまうことになる。

すべては、「それはいったい何か」という問いかけをもつことからはじまり、
それに対する可能な限り最善の最良の応答をすることを「考える」というのだろう。
それこそが、知への愛としての「哲学」。

もちろん知への愛は、愛であるがゆえの熱を持つが、
その熱は、群れとなって、みずからの激情を発散するような熱とは
むしろ対極にあるものだろう。
その熱は、他者を糾弾するような熱ではなく、
みずからへ問いかけ続ける熱である。

さて、ミカエルという名前は、直訳すれば「神に似たるものは誰か」という問いかけだそうだ。
(mî疑問詞「誰」 + kə「~のような」 + hā ’ēl「神」)
シュタイナーによれば、1897年からミカエルの時代が始まったという。
ミカエルは、答えを与える天使ではない。
みずからを「見・返る」ようなあり方を導く。
ある意味で、『自由の哲学』と繋がっている。
そういえば、シュタイナーの『自由の哲学』が刊行されたのは1984年。

現代は、その意味で「自由」の時代がはじまって100年以上が過ぎ、
3・11以後の、問いかけに問いかけを重ねざるをえなくなっている時代となっている。
そんななかで、むしろその反対の動きが、政治的にも経済的にも激化しているように見える。
「正しい」とされる「答え」を安易に求めてそこに群れのような熱狂が支配する。

仏教では「正しさ」のことを「中」とする。
正しさを求めるならば、常に「中」というあり方を問い続けることが必要だ。
一見正しそうに見えても、同じように見えるものでも、
すぐにバランスを失って、右に左に、上に下に変わっていく。
中であるためには、常に問いそのものが本質であることを自覚することが求められる。
そしてそれこそが「自由」への問いでもあるのではないか。