自分をデザインしていこうということでは、自分の特性と反対のものを絶え 
            ず自身の中に組み込むよう意識するのがいい。(…)僕の仕事は瞬時に状況を 
            見切って進めていかなければならないのだが、その特性ゆえの一長一短がある。 
            自分が変わろうとするときには、いかに反対の要素を変わりたいだけの分量、 
            入れていくのかということである。それは、よほど何かのきっかけがない限り 
            困難を極める。 
             「変わる」きっかけは大袈裟かもしれないが、命がけのことでないと難しい。 
            ある決意をもって変わろうとする時間、プロセスの中にこそ、おそらく美しい 
            というものが存在しているのだと思う。変わった後のその人が美しいわけでは 
            ない。変わっていこうとする決意、そして変わろうとするプロセスの不安定さ 
            の中に美がある。(…) 
             変わるプロセスの中で「苦しい」ということが、美を出現させる大きな要素 
            ではないかと思う。苦しいという状態を自分の中に取り込んでいるというのは、 
            それが全てとはいわないまでも、相当な比率で重要なことと感じる。 
            (・・・) 
             人が美しくなるプロセスは苦と関係するが、それはやはり、生活がかかって 
            いる、命がかかっているということである。それまでの安穏として「私の生活 
            は大丈夫」というようなレベルでは、美は生まれない。「変わる」「美しくな 
            る」には、自分の命に関わることと連携し、それを乗り越えようとする意志が 
            必要である。 
            (柘植伊佐夫『さよならヴァニティー』講談社2012.4.5発行/P.238-241) 
        「変わる」ためには、それまでと反対のベクトルが必要となる。 
          単にブレーキを踏むというのではなく、逆方向にクラッチをつなぐということ。 
          悪くすると、車は破壊される。 
        たしかに「命がけ」である。 
        考えてみれば、こうしたことは 
          ある種のカルマ的連関を受けとめるということでもある。 
          おそらくカルマ的連関は、「それまでと反対のベクトル」として生じる。 
          自分の死角のようなところから突如現れるなにか。 
          自分の欠けている部分がそこに如実に示される。 
          予測できないからこそ、影響は大きい。 
        問題は、それをあくまでも拒もうとするのか、 
          それともなんとかして取り入れよう、乗り越えようとするのかということ。 
        きらいなものは避ける。 
          できないことはしない。 
          きらいなものを受け容れることやできないことをしてみる、 
          というのはある意味、「命がけ」でもある。 
          自分のなかに居場所をまったくつくっていないもののためのスペースを 
          自分の居場所のなかに確保するということは、 
          その場所の働きが「関数」となって自分を変化させるということである。 
        自分を変える。 
          つまり、自分をデザインする。 
          そのプロセスに「美」が生まれる。 
      たしかにそこにはヴァニティ=虚栄はありえないだろう。  |