美しい姿というのは、心の表れだ。だから、何か衝撃的な出来事が起こった 
            とき、それまできれいだと思っていたものを、全くきれいだと思わなくなると 
            いうこともある。たとえば、3・11以降、社会のマインドが変わり、「飾る」 
            という感覚に一種の忌避感が抱かれるようになったかもしれない。それは自粛 
            とは全く違う。塗装を上塗りしたものよりも無垢なままのほうがいい、という 
            ような価値観の変遷の問題である。3・11以前と以後では、時代のマインド、 
            時代の美意識が変わったと思う。着ているものの味わい、きれいさの意味が、 
            誠実さに近づくーーつまり、誠実な感じがするほうがきれいだと思うというふ 
            うになったのではないか。 
             だから、いまだに3・11以前のような装いをしている人を見ると、何とな 
            くいいと思わなくなった。きれいなんだろうけれども、よくない。つまり、 
            「きれい」と「いい」が一致しない。 
             なぜ、時代のマインド、時代の美意識というものが変化するのか。ここでひ 
            とつのモラルのようなものを考えなければならないのかもしれない。(…) 
            「それだと、あなたは美しくないよ」という話になるのは、たぶん「真善美」 
            という問題に関わっていると思う。 
             真善美とはアリストテレスが提示した概念である。「真なること、善なるこ 
            と、美なること」の均衡が、人間の普遍的な理想であるとする。その立場に立 
            った時に「美」をどう見極めるか。 
            (・・・) 
             自分の理想としては、認識としての、倫理としての善、あるいは神聖として 
            の善、それと同義としての美、表象や審美としての美が、三位一体になってい 
            てほしいという思いはある。やはり「真善美」の順番は重要で、「真なるもの」 
            こそが、イコール「美」ではないかとすら感じる。「真善」というものは美た 
            り得るけれども、「美」だけでは真たり得ず、善たり得ない。だから美は弱い。 
            そういう関係をとらえていないと、「自分をデザインする」ことの本質には迫 
            れない。 
            (柘植伊佐夫『さよならヴァニティー』講談社2012.4.5発行/P.235-237) 
この地上世界においては、ふつう、自然法則と道徳律は切り離されている。 
        だから、心のなかでどんなに破壊的で醜いことを考えたりしていても、 
          それを表現したり行動にだしたりしないかぎり、自分以外にはわからない。 
          外形が一見整っていたりするだけで、きれいだと思われたりさえする。 
          逆にどんなに美しい心で道徳的に生きていても、自分以外にはわからない。 
        しかし、それはほんとうにそうなのだろうか。 
          とりあえず、自然法則と道徳律が切り離されているからといって、 
          心のなかが外に現れていないわけはないだろうとずっと思っている。 
          変につくったりせず、そのままが「きれい」というのがいいと思う。 
          「そのまま」というのは、意識がないというのではなく、 
          上記のように、「真善美」のバランスをちゃんとふまえているということだと思う。 
          むしろ、「そのまま」であるためには、意識のレベルを上げなければならない。 
        上記引用にあるように、柘植さんは、 
          3・11以降、それまでの外見上の「きれい」は必ずしも「いい」と感じなくなったという。 
          それが多くの人にとってもそうなってきているということであれば、 
          ある意味、この地上世界は、霊的世界に近づいてきているということにもなる。 
        おそらく、古代において、地上世界と霊的世界は現代のように切り離されてはいなかった。 
          それは次第に切り離されはじめ、現代のようになり、 
          またその両者が少しずつ近づいてきている。 
          少なくとも、そういう方向への指向がでてきているということなのかもしれない。 
          ヴァニティ=虚栄は、露呈されるということ。 
        だれでも、自分をよく見せたいとかいう気持ちは少なからずあるだろうが、 
          自分の中味と人に見せようとしている自分とのギャップが大きすぎると、 
          どこかでバランスを失ってしまうことになる。 
          「鏡よ鏡よ鏡さん、世界でいちばん美しいのはだあれ!」的な問いかけに 
          「それはもちろんあなたです」的に答えが返ってこないと 
          自分の「鏡」を壊してしまいかねないようなものである。 
          壊れた鏡に映る像のほうをほんとうの自分の顔だと思い込むことで、 
          次第次第に、真善美がますますばらばらになってしまうわけである。 
        上記引用の少し前に、こういうところがある。 
          美において一番高級なのは、「何でもない」ということ、つまり「何にも引っ 
            かからないこと」であり、それでいて「退屈ではない興奮度」を内在している 
            ことだ。しかし、そのような最上級に美しいことを感じとれる人は少ない。 
            (・・・) 
            もしかすると、「きれい」ということの定義をし直したほうがいいかもしれな 
            い。きれいというのは、容姿も含まれるけれども、まず「正常な波長」とした 
            方がいい。いくら化粧して、ハイブランドの服を着ても、きれいではない。 
            「この人、きれいだな」と思うのは、特別な感じで鶴のように立っているから 
            ではなく、「普通にそこにいる=正常な波長の存在」だからである。 
            (P.231-232) 
        「普通にそこにいる」ことは、なんとむずかしいことだろう。 
          「そのまま」でいることは、なんとむずかしいことだろう。 
          3・11以降、日本人はそういう「普通にそこにいる」ことや「そのまま」でいることを 
      試されているということがいえるのかもしれない。  |