風のトポスノート819
不可視と可視(「自分をデザインする」ノート11)
2012.7.17



   人は五感以外の何かで直感できる能力を持っていると思う。そして、人間が
  感じること、五感の限界を超えた領域というものも世界にはある。そこに、実
  は美のエッセンスというものが存在しており、それが五感で感じられる顕在世
  界とくっついたときに初めて、美になるのではないかと思う。
  (・・・)
   たぶん僕らは、目に見えない世界ということに足を踏み入れているジェネレ
  ーションなのかもしれない。不可視の世界というものを可視化する、そのプロ
  セスがいまの科学のテーマではないかとも思う。そして、実は芸術全般におい
  ても最大のテーマではないか。不可視ということと、可視ということの境界線
  を、生きているなかでどれだけ認識できるかということが、いまのわれわれ文
  明人の最大のテーマだと思う。測れない、見えないと思われていたものが、実
  は実在しているーーあるいは「共有できるかもしれない」くらいの知の世界に
  は、僕らは入っているのではないかと思っているし、そう信じたい。
   原子力発電所は、飛行機が落ちたって、隕石が落ちたって、「絶対に大丈夫」
  というものを作らなければいけない。「想定外」なんて言葉を使う対象ではな
  い。けれども、原発は、目に見える世界で生きてきた人が、収められないもの
  を収められるというふうに見立て違いをしたものだと思う。物質世界に生きて
  いる人たちが、目に見えないものを物質によって支配できると考えた結果、あ
  んな事故になったのだ。もし彼らが目に見えない世界、見えないということの
  尊厳をわかったうえで原子力を扱っていたならば、もっと予防していたかもし
  れないし、そもそも手を出さなかったかもしれない。
   可視の世界が不可視の世界というものを支配しようとした結果、あのような
  惨事が起きた。二つの世界は実は同等、あるいは不可視の世界の方が巨大なの
  かもしれない。万有引力の法則のような古典物理学の後に、相対性理論や量子
  論が出てきたように、科学の世界の常識も打ち破られ続けてきた。不可視の世
  界も多分、やがて可視化され打ち破られるのではないかと思うが、それでもな
  お不可視の世界はずっと存在し続けるだろう。
  (柘植伊佐夫『さよならヴァニティー』講談社2012.4.5発行/P.224-226)

見えないものがあるということを認めることは、
自分は知らないということを知っているという無知の知に似ている。

これは、あたりまえのことなのだけれど、
今の世の中ではすっかりあたりまえではなくなっている。

これは不可知論ではない。
不可知論は、知らないことは知り得ないこととして無視するという
きわめて傲慢な考え方である。
無知の知と似ているようで、まったく異なっている。
知らないがそれでなにが悪い!という開き直りに近い。
あげく、知らないということを無視する態度である。
無知の知ではなく、無知の無視。

単純にいって、
生きていることは目にはみえない。
見えるのはからだだけなのだから。
心も目には見えない。
見えるのは、悲しんだり苦しんだりしている表情や態度だけである。
精神などというものこそ、まったく目に見えない。
考えているというような態度を見ることはできるが、
考えというものがそこらへんを飛び交っているわけではない。

しかし、実際は、ふつうの目では見えないことも
見ようとすれば、私たちには別の目でちゃんと見えていることも多い。
というか、私たちが見ているのはモノだけではないし、
ある意味、世界のすべては生命と思考の姿そのものだともいえる。
ただそれに気づかないだけのこと。

上記の引用にもあるように、
原発を安易にどんどんつくっていったのは、
目に見えないもの、見たくないものを無視した結果である。
そして不安をお金に置き換えて、お金があるから大丈夫ということにして
お金をばらまいて、自分たちの不安もお金が得られるからいいか、ということにした。
原発再稼働も、おそらくは目の前の経済的な事情ゆえの判断でしかないだろう。
そのままにしておくのはもったいない、お金がどぶに捨てられてしまうんだぞ、
ということにすぎないだろう。
どちらにせよ、自分の見たくないものを無視するという「無知の無視」にほかならない。

無知は無視することでは、どこにも行けない。
自分が無知であることを認めることから始める必要がある。
見えないものがあって、そこにとても大切なものがあるということを認める必要がある。

「たぶん僕らは、目に見えない世界ということに
足を踏み入れているジェネレーションなのかもしれない」というのが、
実際であり、無知の知からはじまる不可視の知へとつながっていくことを願う。