ヘアデザイナーとして働いていたころ、自分のなかでサロンにおける進化、 
            アトリエにおける進化が平行して進んで行った。それは「夢うつつ」のような 
            話である。サロンというリアルビューティーの世界では、美は「うつつ」だ。 
            市井で生活する中で、いかに美しい範囲を見定めつくるかが求められる。一方、 
            アトリエにおける美は「夢」である。生身の人間という拘束はあるが、その拘 
            束に則ってさえいれば、どこまでも表現することができる。この両方の表現を 
            自分の中で同時期に体験したことが、いま非常に役立っている。 
             あるときは「うつつ」で、次の時間は「夢」で、その次は「うつつ」ーーと 
            いう感じで勉強や体験の時間が続くと、発想の仕方が変わり、「夢うつつ」両 
            方の視点で考えるようになる。絶えずリアルワールドとファンタジーワールド 
            を同じ時間軸で体験していることで、「この表現は、一般の感受性の中にはい 
            っているだろうか、飛び越えているだろうか」「飛び越えているとすれば、ど 
            のくらい飛び越えているだろうか」「飛び越えたことで、一般はどう感じるだ 
            ろうか」など、その関係を常に意識している状態の脳になったという感じだ。 
            (・・・) 
             拘束があることは重要だ。仮に「すべて自由だよ」と言われたとしても、僕 
            は「いや、絶対にそんなことあるはずない」というふうに思う。この世の中に 
            完全な自由はないと思っているのだ。小さい頃に立ち戻ると、不定型なところ 
            から教育された僕は、アンチ定型という考えを抱き、それが「拘束ありきの自 
            由」という概念に変わったのではないかと思う。そのプロセスにおいて、「二 
            重性」すなわちファンタジー、リアリズムという両面を同等に学んだため、 
            「定型=拘束」という仮想敵を設定するようになったのかもしれない。それを 
            設定することによって自由になろうとしているのが、僕の技術論というか美学、 
            方法のように思う。 
            (柘植伊佐夫『さよならヴァニティー』講談社2012.4.5発行/P.202-204) 
        ヴィダル・サスーンがこの5月に亡くなった。 
          ヴィダル・サスーンは、美容理論をはじめて構造的にくみ上げたイギリスの美容家。 
          ちょうど映画『ヴィダル・サスーン』もその5月から公開されている。 
          (ぼくの住んでいるところでも、やっと上映されはじめたところなので、 
        時間があれば観てみたいと思っている) 
        柘植伊佐夫がヘアデザイナーの道に進んだ頃は、ヴィダル・サスーンの全盛期。 
          1990年に柘植伊佐夫が「第1回日本でヘアデザイナー大賞」を受賞したときの副賞として、 
          イギリスのBritish Hairdressing Award授賞式に招待されたとき、 
          プレゼンテーターのヴィダル・サスーンとはじめて会い、一緒に記念写真をとったという。 
        ヴィダル・サスーンは、柘植伊佐夫にとって、「古典物理学」的な存在であり、 
          実際に会えたことが、その「古典物理学」との「別れ」でもあったというのが面白い。 
        「仏陀に逢ったら仏陀を殺せ」とは意味がちょっと違っているけれど、 
          ある意味、自分を育ててくれた基本的なもの(「守」)を 
          いかに「破」することができるかということは、とても重要なことだろう。 
          そうでなければ、そこから真に「離」れ、独自な道を歩むことはできない。 
          父的な存在、母的な存在にしても同様で、 
          いつまでもそこにしなみついているだけでは、どこにもいけない。 
        さて、夢とうつつである。 
          夢かうつつかといえば、荘子の胡蝶の夢を思い出すが、 
          この世は果たしてうつつなのか夢なのか。 
          夢こそうつつではないのか、夢から覚めるということは、 
          むしろうつつにいる自分が夢見ているのが、今のこのうつつではないか。 
        そう考えてみると、 
          うつつとしてのリアルワールドと夢としてのファンタジーワールドは、容易に逆転する。 
          夢なのかうつつなのか。 
          その両者は、おそらくは同時にとらえることではじめて意味を持つのだろう。 
        それに、「定型=拘束」というコンセプトを合わせて考えてみると、 
          この地上における肉体を持った存在という「定型=拘束」が、 
          いかに自由のために存在しているかということも理解される。 
        私たちは、うつつとしてのリアルワールドにありながら、 
          同時に夢としてのファンタジーワールド、 
          ひいていえばを霊的世界にも同時存在している。 
          その同時存在的なあり方こそが、 
      アーリマンとルシファーの間を歩むキリスト的な道でもあるのだろう。  |