風のトポスノート817
新たなる健全へ(「自分をデザインする」ノート9)
2012.7.17



   新しい文化とは腐り切った土壌、現在のような退廃した世界から萌芽する場
  合もあるのだろうから、今は次のなにかが生まれる直前のどろどろした腐りな
  のだろう。現代は本来ひとつの存在であるべきものが、あまりにも小さい個々
  に分解し、細かく砕けて散らばっている。その分解したものたちが自分自身の
  存在の目的を見失い、さらにネガティブな相互作用を引き起こしながら互いを
  腐らせている。そんな世界に僕たちは生きている。
   一個一個、分割した単体が触れ合って腐らせているから、互いに相手を、
  「こいつは腐っている」と危機感を持って眺め、自分も腐っていることに気づ
  かずにいやな気持ちになっているように見えるが、本当に腐ってしまったなら
  すべてが混沌としてひとつになるに違いない。だから僕はいっそ早く腐りきっ
  た状態になってほしいとすら思うのだ。そのようなひとつの状態として、僕は
  今回の震災や原発事故を見ているふしもある。腐るなら、できるだけ醜く腐っ
  てしまえ、と。
  「新たなる健全」とはなんだろうか。我々は腐敗した、おかしな世界に生きて
  いるけれども、腐っているということをお互いに認知し合うことからしか始ま
  らない「新しさ」もあるのではないだろうか。社会や世間が腐っていて自分だ
  けが健全だと思い込むのは不健全だ。個人だって社会や世間に引っ張られてし
  まうに違いないのだから、今この世界に起きている状態は、自分自身をも象徴
  している現象なのだと自覚したい。
   僕の中にも腐っているものはたくさん沈んでいる。今まではふたをしていて、
  細かく刻んで時期をずらしながら腐らせていたから、なんとかやりくりできて
  たけれども、もうふたはできないところまで来てしまった、止められないのだ
  と認識しなければならない。そのことを自分でどう現実として折り合いをつけ
  るのか。その作業、居場所にしても家族にしても、お金にしても、表現にして
  も、あらゆる人間関係でも、空想の世界でも、自分にとっての現実と自分の中
  にある腐りを統合したうえで新しくしていかねばならない。
   だから、今、この日本で起きている出来事は、妙な言い方をすれば先進的な
  ことだ。世界中にあるカタストロフの可能性を、このタイミングで、この規模
  で先進国が体現した例というものは、おそらく他にないだろう。(・・・)
   政治を批判するだけならたやすい。政治にせよ科学にせよ、あるいは震災へ
  の対処すら、形を変えた自然淘汰のように思える。今の日本は大震災と原発事
  故によって、ピースがさらに粉々にされた状態だ。その飛散したカラダの部分
  は呼応しながら腐っていく。このちりぢりに飛び散る腐敗の傘にもとにあって
  僕たちはどこへ行くのか。球体をめざして、ひとつひとつピースを拾い、かち
  りかちりとはめていく気の遠くなるような作業にとりかからなければならない。
  (柘植伊佐夫『さよならヴァニティー』講談社2012.4.5発行/P.199-201)

内田樹と高橋源一郎の『沈む日本を愛せますか?』、
その続刊の『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』はとても興味深い対話だが、
連載されている、ロッキングからでている『Sight』(渋谷陽一編集)の最新号では、
さらにどんどん沈んでいく日本を愛せなくなりそうだ・・・という話もでていたりする。

「それでも愛する」ために必要なことは、いったいなにか。
おそらくそれは、自分だけを棚にあげて、
「腐っている」相手を「愛してあげよう」と思ったりすることではなく、
自分のなかにもある「腐っているもの」をしっかり見据えることだ。

シュタイナーの社会論にも、
「自分はどんなに善良な存在であることか」という幻想を抱くのではなく、
「悪しき人類とともに、悪しきその一員となることができるように、
自分の才能を発揮することができる、そのことが大切なのです」とある。

これは、逆説とかいうのではなく、
自分の悪を醒めて見据えることができてはじめて、
そこからはじめることができるということである。
ヴァニティー/虚栄にさよならするということはそういうことだ。
おそらくは、その象徴として、昨年の3.11とその後の世の中の動きを
位置づけることもできるだろう。

「新たなる健全」というのは、
そのように、自分の腐り、悪を見据えることなくしてははじまらない。
「沈む日本を愛する」ということは、そういうことでなくてはならない。
どんどん沈んでいくからこそ、腐りがますます根底から見えてくる。
ヴァニティー/虚栄が、まるで霊界のようにそのまま見える姿となって現れてくる。

そしてそれは、世の中が悪い、政治が悪い、教育が悪い、経済が悪い・・・
という批判からではなく、自分のなかの腐りを
ひとつひとつチェックしていくことからはじめる必要がある。
それは「自由の哲学」とも深く関連した営為である。
「そういうものだ」とほとんど自分の血肉のように癒着して離れないものに
「そうでないかもしれない」と剣を向けることだ。
「愛」は卑しいまでの癒しとはほど遠い。
自由になるためには、ヴァニティー/虚栄を生きている自分に剣を向けることが必要である。

おそらく日本も、日本に生きているさまざまなヴァニティー/虚栄に
みずから剣でもって挑んでいるところなのかもしれない。
「世界中にあるカタストロフの可能性を、このタイミングで、
この規模で先進国が体現した例というものは、おそらく他にないだろう」という見方は
まさに、そのことを意味しているのではないかと思われる。