仕事自体は、最初の「ひらめき」を手がかりに進んでゆく。一種の「感覚的 
            なエネルギー体」と言い換えてもよい。それは脳に一撃を与える「光のような 
            もの」だ。衣装やヘア、メイクなどについて検証しデザインしていくうちに、 
            「あっ、このぐらいのエネルギー体だった」と思い出し合点する感じがある。 
             人物デザインを生み出す根源的な直感は。具体的な形ではないので、実際問 
            題として、赤を着ていても、緑を着ていても全く構わないのである。線であろ 
            うが面であろうが構わない。ただ、そのことが総体となった時に、自分が最初 
            に一瞬感じた「エネルギー体=光のようなもの」に近いかどうか、ということ 
            で判断を下しているのだ。だから途中まで作ったものと、最終形が全く変わっ 
            てしまっても構わない。「えっ、そこで変わっていいんですか?」と言われた 
            りするときもある。しかし、始まりに出現した「光のようなもの」に近いかど 
            うか、それがすべてなのだ。 
             おそらく「自分をデザインする」という行為も、自分の中に「光のようなも 
            の」を出現させられるかどうか、それにいかに近づけられるか、というトライ 
            であるような気もするのだ。 
            (柘植伊佐夫『さよならヴァニティー』講談社2012.4.5発行/P.61) 
        光と闇。 
          最初に光があったのか、それとも闇があったのか。 
          どちらにしても、闇は光を消すことはできない。 
        たとえそれがどんなに消え入るような光だったとしても。 
        光だけの世界では、むしろ光は見えないだろう。 
          光だけの世界ではないが、昼の天空に星たちを見ることはむずかしい。 
          見るには、むしろなにがしかの闇が必要である。 
          ひょっとしたら、こうした地上世界が存在し、 
          それを見るためにこそ、闇があるのかもしれない。 
        そのためにこそ、私たちは、闇の世界に生まれてくる。 
          しかし私たちは闇から生まれたわけではない。 
          光から生まれながら、光のことを知るために、闇を必要としている。 
        そういう意味でいえば、「ひらめき」が可能になるということは、 
          それを見ることができる土壌としての闇を生きてこそ、 
          それを垣間見ることができるということでもある。 
        闇のなかに見えた光。 
          その光の方向に歩むこと。 
          ときにそれを見失ってしまったとしても、 
          かつて見た「光のようなもの」に近づいていくこと。 
          ときに、「光のようなもの」がむしろ闇そのものでもあったりもするが、 
          おそらくそこで、似ているけれど違うのは、 
          「光」に近づいているときには、 
          次第に、自分がその「光」そのものになる感覚があるということのように思う。 
        これは、とくにアーティストでなくても、 
          どんな場面でもいえることのように思う。 
      自分を闇にしてしまうような「光のようなもの」は「光」ではない。  |