伝統芸能、たとえば歌舞伎などを観ていると、意図して無駄なことが入れら 
            れている場合がある。「何でそこにそれがあるの?」ということだったり、 
            「何でこの人は、こっち側に動いているの?」ということだったり、要するに 
            機能としての意味がないものが舞台の上に存在することがあるのだ。けれども、 
            それは機能としては意味がないが、表現の総体を成すという意味においては、 
            重要だという感じがある。だから、機能や効率だけで作られていってしまうと、 
            表現は途端に味気なくなってしまう。 
            (・・・) 
             ムダで不安定なもの/ことを楽しめない人は、なにかを「決定しなければな 
            らない」「決定することが正しい」と考えている。でもそれでは生起しつつあ 
            る事物を、最大限に楽しめない。僕自身、「やらなければ」という気持ちで課 
            題にとり組むのは本当に苦手だし、やらないほうがマシ、とさえ思う。取り組 
            む側がどんな気持ちだろうと、課題の内容や分量が変わるわけもない。だった 
            らエンジョイ度を上げて取り組んだ方が、いい結果につながる気がするのだ。 
            (・・・) 
             でもとにかく、快楽物質がないと仕事ができない。そして僕の中でもっとも 
            快楽物質の出る条件が、不確実性を呼び込むことにある。もちろんプロだから、 
            想定できる限りの不確実性は避けなければならないのは当然である。最終的に 
            コントロール可能な、ある幅、ある確率の不確実性を残しておくことに意味が 
            あるのだ。 
            (柘植伊佐夫『さよならヴァニティー』講談社2012.4.5発行/P.47-49) 
        ムダと「遊び」。 
          そのふたつは、どこか似ているところがある。 
          「遊び」は必ずしもムダではないが、 
        どちらもある種の不確実性のもとにある。 
        ムダと「遊び」には、「間」が似合う。 
          「間」のなかに、ムダや遊びが入ってくる。 
          音楽のいのちも、そうした「間」によって成立する。 
        「あらま!」という不確実な驚きを招くのもそうした「間」だ。 
          「間」は「魔」でもある。 
          「逢魔が時」。 
          光が落ちてきてよく見えないとき、 
          そのなかに「魔」が訪れる。 
        「間」「魔」は、ノイズでもある。 
          ノイズは嫌われものでもあるが、 
          情報にノイズが加わらないと、人には伝わりにくい。 
        そうした不確実性は、なんでもいいわけではないが、 
          最初からきちんと役目の決まっているような偽装された不確実性では意味がない。 
          きちんと決まっているときにも、 
          無理数の円周率πのように、どこか割り切れない感じのものが魅力がある。 
        「自分をデザインする」ということにおいても、 
          おそらく、そうした不確実性をもつということが必要なのだろう。 
          自己認識とか自己意識というときにも、 
          自分を合わせ鏡に置いたときのどこまでもとらえきれなさが残るが、 
      そうしたものがあってこそ、そこから何かが立ち現れてくるのかもしれないのだ。  |