風のトポスノート814
ガラパゴスとユニーク(「自分をデザインする」ノート6)
2012.6.29



   ガラパゴスであることと、ユニークであることとは違う。進化の袋小路へ入
  り込んでしまうことと、生物学的ニッチとして多様性の豊かさに貢献すること
  の違いと言えばいいだろうか。ユニークへ至る過程でガラパゴスが出現するケ
  ースもあるのかもしれない。しかし両者が分かれるのはおそらく、情報の取捨
  選択の場面だ。取捨選択して取り込んだ情報が、極端なデフォルメへ、つまり
  ガラパゴス化へ向かわないよう、ブレーキをかけられるのは、バランスの取れ
  た知性と感覚という全体があってのこと。その全体性を何によって得るのかと
  いえば、内実のための苦行だという話に再び戻るわけだ。
  (柘植伊佐夫『さよならヴァニティー』講談社2012.4.5発行/P.41-42)

記憶するということは重要な働きではあるけれど、
それがたとえば書かれていることをそのまま覚えているだけか、
記憶したことを連携させたり、
そこから新たなことを考えだしたりすることができるかでは、大きく違う。
前者は、その記憶そのものが使えるときには役に立つが、
そうでない場合には何の役にもたたず、応用もききにくい。
まさに、ガラパゴス的な袋小路になる。

ちょうど今日、工場生産の話がでていて、
ある製品の製造が不要になってその生産ラインがまるごと使えなくなって、
そこで働いていたひとがリストラされたという話を聞いた。
生産ラインのシステムも、ほかの生産に転用可能であれば役に立つが、
その生産システムがガラパゴス的だとそのままただの廃墟になってしまう。
そこで働いていた人も、ほかの仕事に応用可能なスキルをもっている場合は、
それなりに別の場所で働くこともできるが、そうでない場合、
新たな職場を見つけるのは大変むずかしくなる。

ガラパゴスとユニーク。
ユニークとまではいかなくても、まだ袋小路にはなっていないところにいれば、
ガラパゴス化はある程度回避される可能性がある。

ふと思ったのだけれど、
キリストというのは、まさにユニークなんだろう。
それまでに準備されたさまざまな秘儀をふまえながらも、
かつての秘儀のかたちがおそらくは袋小路になっていくのに対して、
その道こそが、あたらしい進化へとつながる新たな秘儀となった。

ある種の宗教的な形態を理解しようとするときにも、
それがガラパゴス的なのか、ユニークなのかを見ていけば、
そのありようが見えてくるところがあるのかもしれない。

宗教的なものにかぎらず、もちろん「科学」だってそうだ。
どこにも行けそうもない、きわめて細分化された「科学」は、
どこかで行き止まりになりかねないところがある。
ミクロコスモスとマクロコスモスが照応するような、
そんな科学であればいいのだが・・・。