喩えるのもおかしいだろうが、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品の「未完」 
            率は相当高い。僕はむしろそこが大好きなのだけれど、おそらく彼の芸術は概 
            念の中で完結してしまっているところも大きいのだろう。実際に手を動かして 
            作るとなれば手間も時間もかかる。作品を実体化するのは、技術的な実験とい 
            う要素もあるかもしれないが、ある段階までいけば、自分が目標とする地点へ 
            到達できる、ということも見えてしまうから、他の諸事情もあっただろうが、 
            「実際にやる必要はないんじゃないの」と見切っていたのかもしれない。この、 
            見ようによっては気紛れな姿勢が、作品への人間支配の放棄となり、宇宙的な 
            「偶然」を引き寄せて、作品により高みの美しさを与える。そんな次元の美し 
            ささえ感じられる。 
            (・・・) 
            「東方三博士の礼拝」の美しさが、ダ・ヴィンチ自身のどのような事情による 
            ものであれ、その未完さゆえに、彼の作品に対する姿勢が、「支配を捨てて得 
            る美しさ」の境地に達している事実は、表象の追求に先んじて、「内実の充実 
            が美の発現にとって最重要」であることの証になる。東方三博士は自我を捨て 
            て、宇宙からの賜物である「偶然」に礼拝しているのだ。 
            (柘植伊佐夫『さよならヴァニティー』講談社2012.4.5発行/P.38-40) 
        問いと答えが一対一対応する。 
          そんな感覚で、「完成」ということがあるということに 
          小さい頃からとても違和感を感じていた。 
        絵に塗り残しをつくったり、計画表にたくさん余白を残したりして、顰蹙を買ったりした。 
        根気のなさ、面倒くささの言い訳でもあった部分もあるのだが、 
          どうも先が見えてしまうと関心が萎えてしまったり、 
          先のことすべてを決めてしまうことに対する拒否感のようなものがあったのは確かだ。 
        すでに見えてしまったものは、すでにできあがってしまっている。 
          できあがってしまっているものをなぞったところで、仕方がない。 
          そんな感覚を強く持っているにもかかわらず、 
          ある種の臆病さもあって、ロボットになって誤魔化してしまうこともできるようになったが、 
          やはり、完成していること、完結してしまっていることに対する違和感はいつもどこかにある。 
        そういえば、宮沢賢治の全集の編纂は、 
          つねに改稿を繰り返したプロセスにも言及していたりするが、 
          そうした「作品」に向かうものとしてだけではなく、 
          日々のさまざまなことについても、すべてのことが未完だという感覚が常にある。 
          100点というような、テスト評価的なことにどうにも意味が見出せないのである。 
        いま考えていることも、常に変化の途上にある。 
          いま正しいと表明したことも、そうでなくなるかもしれない。 
          それが無責任の言い訳になってしまうことは避けなければならないだろうが、 
          自分のなかのある種のイデアとでもいおうか、そういうものとの乖離感は無限に残る。 
          そのために、いまのさまざまはとりあえずの現象としか位置づけられない。 
          とはいえ、いま現象していることは、たとえ未完だとしても、 
          それが不完全だというのではない。 
          不完全だとするのは、たんに外からの「評価」にすぎない。 
        無常であるということは、常に未完であるということなのだけれど、 
          その未完というプロセスそのものが、いまにおいて肯定される。 
          そんな感じだろうか。 
        繰り返すが、だからといってなんでもいいというわけではない。 
          自分の直観する理念と照らしあえているか。 
      そのことを忘れては、未完を不完全にしてしまうだけのことになる。  |