変な言い方だが、「似合わない」格好をしていることが、相手に与える安堵 
            のような精神状態は、まんざら捨てたものでもない。着こなし程度で覆い隠さ 
            れたりしない、その人の本質へのリスペクトが起動していることが大切なのだ。 
            周囲の人間や特定の相手に好感を覚えられるためには、当人の主観的な着こな 
            しやスタイルのアピールより、その人間の内実を、たとえば着ているものや持 
            ち物を通じて感じてもらうことのほうが、よほど効果的だろう。そのためには、 
            服やメイクより内実を磨いたほうがずっと早いのに、というのが、この身も蓋 
            もない結論なのだ。 
             たとえば20世紀初めのプロイセン、ラインラント地方で、アウグスト・ザ 
            ンダーによって撮影された「舞踏会へ向かう3人の農夫」というモノクロ写真 
            がある。3人ともシルクハットにスーツ、ステッキと盛装で、どこかぎこちな 
            さそうにしている姿は、なんともチャーミングだ。僕の考える「美」のひとつ 
            は、どうやらこのあたりにも存在しているらしい。農民たちの内実があり、そ 
            の彼らがおめかしをしていることとの間にずれがある。それは僕らが今考えて 
            いる、ある人が新しいデザインを自分の中へ取り込む時、こなしきれない不器 
            用さや唐突さを感じるのだけれども、その人自身の深みや内実によって、似合 
            わないことも含めて好感を持たれる、そういうあり方と通じるのではないだろ 
            うか。 
             自分をデザインしていくためには、まず表象とはまったく関係のない内実の 
            充実、研磨を必至でやっていくことが必要だ、というのが、今のところの僕の 
            第一の見立てである。 
            (柘植伊佐夫『さよならヴァニティー』講談社2012.4.5発行/P.30-31) 
        ビールを飲むために、それ専用のビアグラスを使う。 
          もちろん、ビアグラスでも趣味の良いものに越したことはない。 
          ワインを飲むために、ワイングラスを使う。 
          同じく、いい感じのワイングラスだと心地いい。 
        そして、ビールもワインも、個性的で良質のものがいい。 
        しかし、ビールを飲むために、ワインを飲むために、 
          ビアグラス、ワイングラスを必ずしも使う必要はない。 
          井戸の茶碗で飲んだっていいし、 
          安物のただの茶碗で飲んだっていい。 
          それはそれなりだ。 
          ビアグラス、ワイングラスで別の飲み物を飲んだってそれもいい。 
          そうした「ずれ」を楽しむこともまた一興ということだ。 
          「似合わない」器で飲むことで得られる興がある。 
        大事なのは、まずは中味である。 
          中味だけよければなんでもいいわけではないけれど、 
          好きな飲み物でなければ、どんな素晴らしい器を使っても、美味しくはないだろう。 
          愛するワインであれば、好きなぐい飲みで飲んでみるのも、 
          またその「ずれ」が美味しさを引き立ててくれることもある。 
        先日、個性的な蕎麦猪口(そばちょこ)をいつくか買って、 
          それで珈琲を飲んでみたりした。 
          これがなかなかいい感じでくせになる。 
          でも、大事なのは好きな豆の珈琲をちゃんと入れるということだ。 
          好きな珈琲豆を見つけるということだ。 
      好みに合わないものだとそんな気にはなれない。  |