風のトポスノート810
ガラパゴス(「自分をデザインする」ノート2)
2012.6.28



   「自分をデザインする」とは、自分が満足することと、他人からどう見られ
  るかという関係の中に発生する問題だと思うのだが、そのことを考えるきっか
  けは、たとえば「モテたい」という気持ちの芽生えにも見てとれる。
   ここで僕の頭に「渋谷系」の女の子たちのイメージが浮かんでくるのだが、
  どうして彼女たちは、たとえば一時のガングロや過剰なつけ睫毛のような「デ
  フォルメ」に引き寄せられるのだろう。推測するに、それは彼女たちの選択肢
  が非常に狭いことに理由のひとつがある。自分の、あるいは他人の欲求を満た
  そうとする時、そのために採り得る手段についての情報が少ないと、選択可能
  な少数の手段に偏執し、繰り返さざるを得ない。(・・・)
   わずかな情報、未熟な技術、限られたアイテム、それらを取り囲む大きな制
  約の中で、自分が(まず外見的に)承認されたいという欲求を満たすために採
  る手段は「デフォルメ」が一番早道で、効果的だと考えられるのだ。
   (・・・)その環境を一言でいうなら「ガラパゴス」だ。IT機器は使うけ
  れども、その接続先は仲間内のコミュニティ。こうした「袋小路」では、デフ
  ォルメされた造形や色彩など、独自の進化が起こりやすくなる。そして日本社
  会の中のガラパゴスは一島だけではない。孤島を作る社会集団は学校以外にも
  無数にある。
  (・・・)
   結局のところ、個人としての人間は極めて個別的で、言い換えればガラパゴ
  ス的な存在なのだから、外部(=社会であったり別のガラパゴスであったり)
  との接触領域が必要になるわけだし、それに合わせたデザインを学ばなければ
  ならない。ここでリテラシーが求められる。(・・・)
   すべての色を混ぜるとグレーになる。本来リテラシーや技術の習熟は人間性
  の発現のためにあるにもかかわらず、それが逆方向に機能してしまい、「精神
  のグレー化」のような悲劇が起こる可能性もないわけではない。自分を失った
  まま他者を取り込み続けていくと、色としてはグレーにならざるをえない。
  (柘植伊佐夫『さよならヴァニティー』講談社2012.4.5発行/P.25-29)

「モテたい」とか「目立ちたい」、「認められたい」というのは、
さまざまなバリエーションもふくめてだれにでもある程度あるのだと思うのだが、
それをどのように表現するかというのはひとそれぞれである。

「わずかな情報、未熟な技術、限られたアイテム」しかないところで
人との「違い」を表現しようとすれば、
ひどくわかりやすいところでそうするしかない。

表現する場にしても、とても小さな「島」か、
もっと大きなところで実行するかによって、
その「効果」は異なってくる。

閉じた小さな「島」でやれば、仲良しのなかでは
比較的簡単に、それなりの評価・承認を得ることができるだろうが、
閉じた「島」を出て表現しようとすれば、
ときには「非行」のようなかたちをとったりもする。
暴走族なども、そういうかたちなのだろう。
「わずかな情報、未熟な技術、限られたアイテム」しかないからこそ、
「違い」を表現するには、ひどくわかりやすい方法しか可能にならない。
そしてときにそれは、ネガティブな方法となって発現する。
とはいえ、小さな「島」にしても、きわだったポジティブな仕方で評価されようとすれば、
それなりの「多くの情報、高度な技術、多彩なアイテム」が必要とされる。

早い話、他人にポジティブに評価してもらうことは困難だし、
ひどく手間暇のかかることが多いが、
ネガティブに評価してもらうことは、比較的簡単な行動ですむ。
つくるのは難しいが、こわすのは簡単だということだ。

しかし、どの程度、どのような仕方で、
「多くの情報、高度な技術、多彩なアイテム」が必要とされるかは、
とてもむずかしい問題をはらんでいる。

引用に「すべての色を混ぜるとグレーになる」とあるように、
主体性なくあらゆるものを取り込み続けると、「グレー」になる。
また、ある一つの基準だけでリテラシーや技術を取り込んでしまうと、
それがいかにたかい水準にあるとしても、どれもこれも同じになってしまう。

悟りに近づくと、海のなかに落とされた滴のように個が消えてしまう、
といったようなイメージにも近いかもしれない。
そういえば、山上たつひこの初期のマンガ(『光る風』が書かれた時代)に
天国でみんなが大仏さんのような同じ顔をしているというようなコワイ話があったが、
「多くの情報、高度な技術、多彩なアイテム」を持ちながら、
「自分をデザインする」ということが、そうなってはならないだろう。
みんなが同じ理想の顔とスタイルをもって区別が付かない・・・というのは悪夢でしかない。

そういえば、ガラパゴス諸島のピンタ島に棲息していた
最後のゾウガメの「ロンサム・ジョージ」が死んでしまったというニュースがあった。
絶滅である。
ガラパゴスでは、さまざまな種が独自の進化をした。
独自であるということと、ガラパゴス的現象の果てにあるもの。
しかし、グローバル・スタンダード的になるというのもまた違っている気がする。

考えていくとよくわからなくなるところが多いが、
個と社会というのも、スタンスの取り方はとてもむずかしい。