風のトポスノート806
それをお金で買いますか
2012.5.31



   世の中にはお金で買えないものがある。だが、最近ではあまり多くはない。
  いまや、ほとんどあらゆるものが売りに出されているのだ。
  (・・・)
   市場が侵入してきた領域ーー家庭生活、友情、セックス、生殖、健康、教育、
  自然、芸術、市民性、スポーツ、死の可能性の扱い方ーーの多くについて、何
  が正しい規範なのか、意見が一致していない。だが、私が言いたいのはそこだ。
  市場や商業は触れた善の性質を変えてしまうことをひとたび理解すれば、われ
  われは、市場がふさわしい場所はどこで、ふさわしくない場所はどこかを問わ
  ざるをえない。そして、この問いに答えるには、善の意味と目的について、そ
  れらを支配すべき価値観についての熟議が欠かせない。
  (・・・)
   つまり、結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにしてともに生き
  たいかという問題なのだ。われわれが望むのは、何でも売り物にされる社会だ
  ろうか。それとも、市場が称えずお金では買えない道徳的・市民的善というも
  のがあるのだろうか。
  (マイケル・サンデル『それをお金で買いますか/市場主義の限界』
   早川書房/2012.5.15発行 P.11/P282-283/P.284)

「何世紀にもわたり、生命保険はほとんどのヨーロッパ諸国で禁止されていた」という。
例外はイギリスで、保険ビジネスとギャンブルの区別もあいまいだったようだ。
もちろん、今では「生命」さえすでに何の抵抗もないまでに「売りに出されている」。
「いまや、ほとんどあらゆるものが売りに出されている」のだ。

「タブー」という言葉がある。
ウィキペディアによれば、次のような意味である。
「タブー (taboo) とは、もともとは未開社会や古代の社会で観察された、何をしてはな
らない、何をすべきであるという決まり事で、個人や共同体における行動のありようを
規制する広義の文化的規範である。ポリネシア語tabuが語源。18世紀末にジェームズ・
クックが旅行記において、ポリネシアの習俗を紹介する際に用いたことから西洋社会に
伝わり、その後世界各地に同様の文化があることから広まった。禁忌という訳語も用い
られる。」

「お金」にも、かつてはある種の「タブー」が強くあったが、
そのタブーの適用範囲がどんどん狭まっているということだ。
「お金」だけではなく「生命」のタブーさえもどんどん狭まっている。
おそらく、かつてあった「タブー」は、「未開社会や古代の社会」のものであり、
近代以降、その多くがその意味を失ってきているということなのだろうが、
「お金さえあれば何でも買える」ような感覚が暴走してしまうのは、
私たちの社会が、それに代わる規範やルールを確かなかたちで生み出すことが
大変難しくなっているということにほかならない。

お金を個人の自由という発想で個人の欲望の方向性を重視しながら使うか、
共同体的な発想での欲望を重視しながら使うか、という
個人とコミュニティーにおける正しさの考え方の発想の違いの対極を
リベラリズムとコミュニタリアリズムという二つの方向性に見ることができるが、
どちらの考え方にも、何かが欠けているように見える。
おそらく個人にせよ、共同体にせよ、
そこでとらえられている「人間」はどちらも、
きわめて外面的な存在だからなのかもしれない。

かつての「タブー」は宗教的な禁忌だったが、
それが壊れてしまった後、
「科学主義」や「お金主義」のような新たな「宗教」が生まれた。
その「宗教」における「人間」は、「魂」を欠いている。

かつて、霊・魂・体であった人間存在は、
キリスト教によって「霊」を失い、
近代になって、さらに「魂」を失って、「体」だけになった。
だから、「心」とされるものも「体」のひとつである
「脳」で生み出されるといってはばからない。
リベラリズムにせよ、コミュニタリアリズムにせよ、
そういう世界観のもとに規定されてしまっている。
そうでなければ、それぞれを信奉する宗教的なものに規定されている。
そこでいかに「お金では買えない道徳的・市民的善」といったところで、
逆行するか、即物的になるかの違いしかそこにはない。
「ベーシック・インカム」の議論にしても、
「お金主義」の反対側にあるように見えたとしても、事情はどこも変わらないだろう。

「それをお金で買いますか」という問いは、
それ以前の問いに差し戻されることではじめて有効な問いとなるように思う。
つまり、「あなたにとってもっとも大切なものは何ですか」という
一見きわめて素朴な、しかしとても素朴な問い。
それは「体」だけに規定されてしまった「生」だけではなく、
「生と死」を横断したところではじめて問うことのできる問いである。

もちろんそれがかつての「タブー」のような禁忌に満ちた
宗教的なそれであったとしたら、逆行でしかなくなってしまうだろうし、
その問いが「体」だけに規定された即物的な欲望に満ちていたとしたらとしたら、
「お金で買えるなら何でも買ったらいいじゃないか」はすぐその近くにあるわけで、
そうした問いはまたどこまでもどうどうめぐりの問いでしかなくなってしまうことになる。