風のトポスノート804
存在と虚無
2012.5.11



   ずっとむかし、ぼくたちはみんな、誰かが書いたお話の中に住んでいて、
  ほんとうは存在しないのだ、といううわさが流れた。
  (・・・)
   ねえ、クリストファー・ロビン。
   それでも、ぼくたちは、頑張ったよね。
   世界が、どんどん「虚無」に侵されてゆく、とわかってからも、ぼくたち
  は、絶望なんかしなかった。なぜって、それと戦う方法を見つけたやつがい
  たからだ。そいつは、うわさを逆に利用することにしたんだ。
  「おれたちが、誰かさんが書いたお話の中の住人にすぎないのだとしたら、
  おれたちのお話を、おれたち自身で作ればいいだけの話さ」とそいつは言っ
  た。そして、ひとつお話を書いて、寝ることにした。そしたら、次の日には、
  そのお話通りのことが起こったんだ!
  (高橋源一郎『さよなら クリストファー・ロビン』新潮社/2012.4.25.発行/P.5&20)

お話と「虚無」といえば、
ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』を思い出す。
私たちがファンタジーする力を失ってしまえば、
ファンタジーの国は虚無に侵されなくなってしまうことになる…。

高橋源一郎の『さよなら クリストファー・ロビン』は、
それと似ていないこともないが、もう少しばかり現代的?かつ
さまざまなパロディーを織り交ぜながら話が進み、
登場人物達は、お話をつくることに疲れてしまい、
「そしてだれもいなくなった・・・」的なペーソスを漂わせた話になっている。

世界劇場という世界観?がある。
私たちは、世界という劇場の登場人物なのだ。
しかしそれはだれのための劇場なのだろうか。
脚本を書いているのは誰だろうか。
観客は誰だろうか。
そういうことを考えていき、
それらがすべて自分の一人芝居だとすると、
「存在」ということがとらえにくくなる。
では、芝居を辞めたらどうなるのだろうか、ということ。

「おれたちが、誰かさんが書いたお話の中の住人にすぎないのだとしたら、
おれたちのお話を、おれたち自身で作ればいいだけの話さ」
と発想したとしても、ずっと物語続けるのはそんなに楽なことじゃない。
そのうち疲れてしまって、「もういいや」ってことになりはしないか。

そして、かろうじて自分で自分を物語っていられる最後に、
自分でつくりだした最後の登場人物に向かって、
「それでも、ぼくたちは、頑張ったよね」と話しかけるんだろうか。

しかし、ある意味で、その「虚無」からこそ
はじまることができるのかもしれない。
「それでも、ぼくたちは、ぼくは、頑張ったよね」といいながら、
静かに目を閉じて、意識が消えてしまうとともに、
ようやくなにかの萌芽がはじまるのかもしれない。
無から生まれ無に帰り、
「存在」が消えてはまた生じるように・・・。

・・・物語ることで自分に芝居をさせたりしていると、
ときに、ふっと、これ、ぜんぶ、もうやめてもいいんじゃないか、とか思うこととがある。
ぜんぶやめたら、世界は、自分はどうなるんだろうか、とか思いながら。

生と死というのも、そういうことのためにもあるのかもしれないが、
さらにいえば、生と死をふくんだサイクルの「存在」が
もうひとつ大きな無につつみこまれることを想像したりもする。

少年の頃、今この自分が死んだら、すべてなくなってしまったら、
この今の意識もなにもかもなくなってしまう・・・とかいう恐れで
眠れなくなってしまったことがよくあったが、
逆に最近では、ほんとうに静かな眠りのような虚無に包まれることのほうに
むしろ魅力を感じたりもする。