風のトポスノート802
ファン心理から
2012.4.19



  糸井 シーズンオフに人としゃべってるとき、
     オレは気持ち的にはけっこう広島が好きなんだ、
     っていうことを、何度も言ってるんですよ、ぼく。
     で、実際、チームとして好きなんです、広島が。
  田口 はい。
  糸井 じゃあ、そんなに好きなんだったら
     広島対巨人でやったときに
     ときどきは広島の応援してもいいじゃない。
     ‥‥ひとつもしてないんですよ。
  (・・・)
  田口 そうなんですか(笑)。
     まったくしてないんですか。
  糸井 まったくしない。
     でも、広島が好きっていうのはウソじゃない。
     (・・・)
     もう、正直にいえば、
     実もフタもないことだらけです。
     だから、シーズンオフの補強なんかもね、
     開幕するまえだったら、ぼろくそに言いますよ。
     「ああいうことまでして勝ってもね
     正直言ってうれしくないんだよ」とか。
  田口 うれしいんですね?
  糸井 うれしい。
  田口 はははははは!
  糸井 その自分に気付いてから、
     やっぱり新しい人生がひらけますよね。
     じぶんっていうのは、
     まったく信用ならないな、とかね。
     うれしさは理屈じゃないんだな、とかね。
  田口 話を聞いてると、糸井さんは、
     個々の選手が好きなわけではなく
     「ジャイアンツ」が好き。
  糸井 そうみたいです。
     するとね、じゃあ、ジャイアンツってなに?
     ってことになるんです。
  田口 なりますよね。
  糸井 そこは何度も何度も考えます。
  (・・・)
  田口 極端にいえば、
     ジャイアンツのユニフォームを着た人が
     プレーをしていれば、それでいいわけですね。
  糸井 そういうことになるんですよ。
     で、そうすると、
     「オレはユニフォームが好きなのか?」
     っていうことになる。
     (・・・)
     実際、ほかのチームを応援しようと
     思ったことも、何度もあります。
     で、いちばんその決心がひどいときは、
     野球を嫌いになろうとして、
     ほかのスポーツを観ようとしたんです。
  (・・・)
  糸井 でもね、「野球が好きだ」っていうのは、
     申し訳ないけど、間違いないんです。
     「野球が好きなんじゃなくて
     ジャイアンツが好きなんですね」
     って言われたら、否定できないんですけど、
     「野球が好きなわけじゃないですね」
     って言われたら、「それは違う!」と。
   (・・・)
  糸井 もうね、わかんない。
     ラブとか、信仰とか、
     そういうことに近いのかもしれない。

  (ほぼ日「野球の人。~田口壮、21年目の選択~ 5「補強とファン心理。」より)
   http://www.1101.com/taguchi_2012/2012-04-18.html

ファン心理というのは、問いを繰り返していくと、
なぜファンなのかがわからなくなるところがある。

ファンだからひいきのチームのことに詳しい人もいて、
だからファンなんだという理由のある人も多いかもしれないが、
選手の名前さえほとんど知らなくてもファンである場合もあったりする。
そうまでして巨人ファンとか、そうまでして阪神ファンとか・・・。

自分が野球に関心があったりすることさえあまり信じられないのだが、
ぼくは日本ハムファンである。
なぜファンをしているか理由を挙げることはできるし、
チームがその理由を満たさなくなったとしたら
野球を見たりするのはやめるかもしれないが、
ファンであることというのは、ある種の「ラブ」であるようだ。
たぶん、なにがしかのものを投影して、
そこの部分を「ラブ」しているということなのだろう。
程度問題はあるが、たしかに信仰に近い。
逆にそうでなければ、ファンはできないかもしれない。

人はどうしてファンになるのだろう。
先に挙げたように、そこになにがしかのものを投影する対象を見つけて、
それをある種の魂のエネルギー源にしているということなのかもしれない。
だから、その投影がほとんど刷り込み状態になる場合もある。

そうした現象とは逆に、嫌いということがあったとする。
どうして嫌いなのか。
その理由を挙げることは、おそらく難しいことではない。
あれが嫌い、これが嫌い・・・というのはいくらでもいえるし、
どんどん問い詰めていけば、最後には「嫌いだから嫌い」に行き着く。
それはもう理由ではなくなっている。
嫌いな理由が、「嫌いだから」でしかないというトートロジーになる。

そう考えていくと、
好きも嫌いも、とても面白くなってくる。
好きな理由は好きだから、
嫌いな理由は嫌いだから、となる
その向こう側には、もしくはその根底には
どんな秘密が隠されているのだろうか。

たぶんそれは、「記憶」を問題にするときにもクローズアップされてくる。
「記憶」は「記憶」であってその向こうになにかがあるようには思えないのだが、
実は、その「記憶」は私たちのいわば「内面の鏡」であって、
それに映っているものを見ているだけになるのだが、
実際には、その鏡の向こう側というのもあるのだ。
そこらへんの視点については、
先月、「シュタイナーノート」に書いてみた
「内面の鏡の奥の「破壊のかまど」」にもつながるところかもしれない。

私たちは、自分を壊したくはない。
だから、好きは好きで、嫌いは嫌いなのだ。
ファンであるということも、自分を補強するには不可欠な方法でもある。
しかしその補強は、TPOが変われば逆に破壊衝動にもなり得る。
エロスとタナトスは裏腹なのだ。