世阿弥にとっては、あらゆるものが花であった。生者だけではない。 
            怨念をのこして成仏できない死者も花であり、死者をふくめた人間存在 
            すべてのものに花を見いだす。それがキヨメとしての能楽師の極める道 
            であると。 
             夢幻能で世阿弥は、死者が現在を生き、生者が過去をさまよう世界を 
            描いた。鬼や死者の妄執、怨念を舞台によびもどし語らせる、それを聞 
            き弔う生者こそ、「乞食」と蔑まれながら、魂の鎮魂と浄化すなわちキ 
            ヨメをになった我々なのだーー猿楽の巨人・世阿弥の自負はそこにある。 
    死者に手向けられた花・・・・・・ 
           それは死者を弔うためのものであり、死という新たな旅のはじまりを祝 
            うためのものであり、つぎの世界での生を飾るためのものであったろう。 
            立華・猿楽・茶の湯における花は、どこまでも生命を象徴するものであり、 
            生命のつながりを意味していた。つぎに託される生命であった。そうした 
            花から、いまわたしたちはずいぶんと遠ざかってしまったようだ。 
             
            (中島渉『花と死者の中世/キヨメとしての能・華・茶』 
             解放出版社 2010.11.30.発行 P.187-188) 
        花といえば「拈華微笑」を思い浮かべる。 
          釈迦が霊鷲山で弟子達に仏法を説いたとき 
          黙って金色の蓮の花(金波羅華)を拈ってみせたが、 
          摩訶迦葉だけがその意味を悟って微笑んだ。 
        世阿弥は「能を知ることはまず花を知ることにある」という。 
          世阿弥の能といえば夢幻能。 
          そこでは生と死が交錯し、 
          いわば「魂の鎮魂と浄化すなわちキヨメ」が行われる。 
        現代は、生から死が遠ざけ蹴られ、 
          死から生が遠ざけられてしまっている時代である。 
          つまりは、死をできるだけ見ないようにしている。 
          死は、死体は、病院で速やかに処理され、葬儀社に渡され、火葬され、骨になる。 
          生から死へのプロセスをじっくりと見る機会は少ない。 
          見えたとしてもそれは生きた肉体が死体へと変化するだけのこと。 
        私たちのなかで死なない者は誰一人としていない。 
          それにもかかわらず、 
          生きている私たちにとって 
          死はとても抽象的ななにかでしかなくなっている。 
          だからこそ人はただ生きることそのものを自己目的化し、 
          死から切り離された生に妄執を示したりもする。 
          世界観がそうせしめてしまうのだろう。 
          そのくせ、死後を否定する者が墓に詣でたりもする。 
          認識できないものはただ切り離されたまま無自覚のまま放置される。 
        「魂の鎮魂と浄化すなわちキヨメ」としての「成仏」。 
          できれば成仏するとかしないとかいうありようが 
          意味をもたなくなる生/死であればと思うのだが、 
          そのずっと手前で、それまで切り離されていた死を受け入れるための 
          「キヨメ」はそれなりに必要なことなのだろう。 
        しかし、そうした「キヨメ」のために 
          生から死へ手向けられる花であるだけでなく、 
          死から生へと手向けられる花のことを思ったりもする。 
          死を生と切り離して死を歩む者にとって、 
          死はある種の闇の向こう側でしかないだろうが、 
          生と死を切り離すことなく生き、そして死す者にとっては 
          花を死者から生者へ拈華微笑のように手渡される、 
          そんな花にすることもまたできるのではないか。 
          そんなことを。 
        PS 
          中島渉という名前を見て懐かしいと思った。 
          ぼくとほぼ同世代の作家、ジャーナリストだが、 
          1980年代の中頃の『ハルマゲドン黒書』という小説以来である。 
          本書のプロフィールにはそうした記載はなく、 
          「近年は日本の伝統文化をアジア全体のなかで捉え直したり、 
      新しい視座から読み解くことを試行している」という。  |