風のトポスノート798
脱皮のために
2012.2.5



  習得してしまったものを払い落としてゆく技術、それこそぼくらに
  もっとも欠けているものなんじゃないかって、ずっとそんな気がし
  ている。
  (管敬次郎『コロンブスの犬』河出文庫/2011.10.10.発行 P.32)

ここ数年、ずっと苦闘していることがある。
苦闘というのとはちょっと違うかもしれないが、
私が私であるためには、
私が私でなくなる、
つまり、それまでの私から常に変化し続けることを
積極的に進めていく必要があるということだ。
もちろん究極的な意味での「私」というのではなく、
いまのこの「私」ということにおいてのことだ。

とりあえず、この「私」は「無常」のなかにいる。
ひとときも「私」は変化を逃れることはできない。
そして、それゆえにこそ、人は成長することもまた可能になる。

人が成長し続けるには、
それまでの自分を壊さざるをえない。
死して成れということでもある。
昆虫や甲殻類が外皮を脱ぎ捨てる
「脱皮」という言葉をつかってもいいかもしれない。

ほらほらこれがぼくの殻(皮)、という感じで、
ぼくの脱皮したあとの過去の姿を苦笑できるようになればしめたものだが、
事はそう簡単ではない。
過去の自分を捨てるには勇気がいる。
脳が損傷して記憶を失ってしまうのではなく、
記憶はそのままで自らを新しく、いわば脱構築する必要がある。
執着は果てしない。
執着という言葉は習得という言葉にも似ている。

スーフィーの話に、猿捕りの話がある。
紐につないだ壺に猿のエサを入れておくと
猿はその壺に手を突っ込んで取ろうとする。
けれど、そのエサをもったままでは壺の口につかえてしまう。
紐につながれた壺に手をつっこんだまま、とらわれてしまう。
逃げようと思えばエサをつかんだ手を離せばいいのだが、
その手を離すことができずに、やがて猿捕りにつかまってしまう。
そんな話だ。

人が死に、そしてまた生まれ変わるというのも、
そのときの私がある意味でその猿のようになってしまって、
脱皮できなくなっているということなのかもしれない。
人は生きている以上、悩み、そしてそれなりに努力したりもするのだが、
同じ生のなかでそれがひどく停滞してしまうと、
もうどこにも行けなくなってしまうのだろう。
だから仕切り直す必要がでてくる。

数年前に、どうもそうしたある種の停滞モードを感じてしまうことがあった。
自分なりにではあるが、そのときもそれなりに努力をしていたつもりなのだが、
どうもそれがある種の枠のなかで、息苦しく感じられるようなり、
どうにかしようと思うのだけれど、どうにも身動きがとれない感じがして仕方がない。
このままではいけない、ということで、
数年前から、「それまであまりやってこなかったことを自分に集中講義してみよう」
ということで、毎日、毎週、毎月、毎年、という感じで、
小さなことでも、新たなことを見つけるなり、見据えてみるなり、
そうしたことを続けてみることにしてみるようにした。

もちろんそんなに簡単にいくことではないし、
別に、それまでの自分をスポイルしてしまうようなことをするつもりもないが、
とにかく、自分を構成しているエレメントを編集し直してみようと思った。

面倒だとおもっていたことを小さなことでもやってみる。
好きでないと思っていたことに目を向けてみる。
会いたくないと思っていた人と会ってみる。
知らないことばを調べてみる。
それまで知らなかった「著者」の本を読んでみる。
それまで知らなかったミュージシャンの音楽を聴いてみる。
それまで知らなかった画家の作品を見てみる。
・・・・
そんなことを継続的にやってみることにして、
今も続けているのだが、
そうしたことを意識して自分の課題としているうちに、
少しずつではあるが、ある種の閉塞感から自由になれたかもしれないと
昨年あたりから感じられるようになってきている。

「捨てる」というのとはちょっと違うのだけれど、
「私である」と勘違いしていたために
自分のなかで淀んでいたものを
比較的容易に排出することもできるようになってきたのかもしれない。

試みはまだまだ始まったばかりではあるのだけれど、
記憶が固定化し、風化し、自動化してしまったりもして、
こうした試みがほとんど止まってしまったとしたら、そのときが
もうこの生において「脱皮」することができなくなったときなのかもしれない。