風のトポスノート797
私には言いたいことがある、のか
2012.2.2



  「私には言いたいこと、言わねばならないことがある」、それは今から23年前に
  僕がパリでエマニュエル・レヴィナス先生にはじめてお会いしたとき、先生が頬を
  紅潮させ、熱く語ったときのキーワードでした。先生はそのとき準備している次の
  哲学的著述の内容について語ってくれたのですが(その著作は先生の死によって世
  に出ることはありませんでした)、そのときの主題は「それは言わねばならぬこと
  である(c'est a dire)という言葉でした(c'est a direは定型句としては「つまり」
  という意味なのですが、レヴィナス先生はそのとき、その定型句の原義に焦点を当
  てて語ったのです)。そのときに先生が話したたくさんのことの中で、四半世紀語
  った今でもなぜかその言葉だけが僕の耳底に残っています。
   言葉が届くということはどういうことか。それは「わかりやすく書く」というこ
  とではありません。論理的に書くということでも、修辞を懲らすということでも、
  韻律が美しいということでもありません。そんなことはリーダビリティにとっては
  二次的なものにすぎません。いちばんたいせつなのは「私には言いたいことがある」
  という強い思いだと僕は思います。そして、その思いが最大化するのは、(・・・)
  「言葉が届くはずのないほどに遠い人」になお言葉を届かせるべく、身をよじるよ
  うにして語るというふるまいにおいてではないでしょうか。
  (内田樹『呪いの時代』新潮社 2011.11.20発行/P.197)
  *上記引用中のフランス語の「a」は、アクサン・グラーヴの符号付です

しばらくのあいだ、ネット上で何も書かずにいた。
書かないでおこうと強く思ったわけでもなく、
書く時間がまるでとれないというわけでもなく、
書くことが見つけられないということでもなかった。
むしろ逆かもしれないくらいだ。

ここ数年、ネット上で書くことがひどく少なくなってきていたが、
あらためてどうしてだろうと考えてみた。
ひとつには、ブログにツイッターと、
あまりに書きやすい、発言しやすい環境がありすぎるというのはあるだろう。
これだけ夥しく垂れ流される言葉の洪水のなかで、
その洪水のなかにさらに言葉を垂れ流してどうするのだろうという
うんざり感に近いものも確かにある。

かつてパソコン通信なるものをはじめた20年ほど前、
キーボードを使ってある種の言葉を送ることに
ある種の新鮮味を感じていたことを思い出す。
その頃は、とくにそれほどの意識ももたないままに、つらつらと書いてたりした。
自分の言葉も含め、もちろん今と同様に、馬鹿な言葉や
おそらくその電話線の向こうにいるであろうその言葉に
見合っているだろう人間も確かにたくさんいたのは確かだ。
しかし、それがある種の「特別な場所」であるという感覚を失い、
ほとんどシステム的に日常化されてしまったときの言葉というのは、
その場における質そのものが次第にまた別の顔をもってしまうところがある。

そうした違和感もあって、最初にホームーページとメーリングリストを作ってからは、
ブログというメディアができたときもあえてつくらずにいたし、
その他の要素もほとんど加えないままでほとんど最初のかたちのままこうして続けてきている。
そんななかでずっと沈殿してきた違和感がここにきて、
あらためて無視できなくなってきたというのはたしかにある。

しかし、そうしたことよりもずっと問題だったのは、
わざわざこうして言葉を垂れ流してまで
「私には言いたいことがある」のかという自問だった。

「シュタイナーの精神科学を学びながらそこで見いだしたことを紹介したい」
というのは今でもまったく変わっていないが、
最初ホームページをつくったとき、
シュタイナーの全集を紹介したような日本語のデータなどなかったし、
邦訳されていたりする文献も今と比べると格段に少なかった。
そういう意味では、ないよりはあったほうが少しはだれかの役に立つだろうという思いもあった。
参照できる文献が増えたからといってそれが以前より理解されているかどうかはわからないが、
それは別として、今では、ほんとうに読もうと思って、
ある程度言葉をちゃんと理解できる人が過剰な先入見さえもたなければ、
日本語だけしか理解できない人にも、今ではシュタイナーの精神科学を理解することは、
可能性としてはむずかしいことではない。

しかし、神秘学が、かつての時代のように秘されている必要などなく、
それを理解しようとする際、その人そのものがみずからを閉じてしまうがゆえに、
あえて秘される必要のままに、多くの人からは閉ざされているといったほうがよいように、
実際問題として、理解する人は実際問題として限られているといったほうがいいような印象がある。
おそらく、ぼく自身にしても、自分に準備ができていないことに関しては、
事情は変わらないのだろう。

それは神秘学にかぎらず、
あらゆる物事に及んでいるといっていい。
メディアやネットからの夥しい情報が流れれば流れるだけ、
むしろ何かがそのなかで埋もれてしまいかねないのではないかと危惧することが多い。

そうしたなかであえて言葉を使う以上、
「私には言いたいこと、言わねばならないことがある」のか、
といこうことをあらためて自問してみる必要がある。
少なくとも、その行為がなにかを破壊するのではなく、
なにがしか創造的であることを心がけること。
そんななかで、ひょっとしてだれかにその「言いたいこと」が伝わるのだとしたら、
それれがぼくのなかで「私には言いたいことがある」という
強い思いとともにあるときだけなのだろう。

そしてあらためて自問。
ぼくのなかにそういう「強い思い」があるかどうか。

「強い思い」があるとすれば、
書こうとすればかつてにくらべて格段に書けてしまうことが多いだけに、
むしろ、そういう書けるかたちというようなものを外して、
それをなにがしかの言葉に置き換えてみる試みができればと思っている。
いつもそんなことができるわけでもないだろうが、
ときには、「身をよじるようにして語る」自分でありたいと思う。