風のトポスノート794
近代意識・ポストモダン意識・プレモダン意識
2011.9.7



   村上春樹の作品の興味深いところは、それがまさに現代の最前線の意識のあり方を
  捉えているところであると思われる。明治以降の日本人の意識のあり方をみてみると、
  夏目漱石自身に対人恐怖症的なところがあったように、日本における近代意識の現れ
  とともに生じてきた代表的な症状は対人恐怖であった。国際的な診断基準にも入って
  いる「社会不安障害」というのが社会や人に対する一般的な不安であるのに対して、
  対人恐怖とは、近所のおばさんやクラスメイトなど、家族でも見知らぬ人でもなく、
  その中韓の少しだけ知っている人に対して不安を抱くもので、ヨーロッパやアメリカ
  では見られない。近所のおばさんやクラスメイトはゆるやかな共同体的なつながりを
  形成しているものの代表であろうけれども、共同体的なものから自立した近代意識を
  打ち立てようとすると、これまで自分を温かく包んでくれていた共同体的なものが、
  束縛し、敵意を持つものとして感じられるために、対人恐怖という症状が生じてくる
  と考えられる。共同体からの自立という歴史的な課題が既に達成されているヨーロッ
  パやアメリカでは、このような症状が見られない。ところが日本人の代表的な症状と
  すらみなされてきた対人恐怖症は近年に激減し、1990年代からは解離の症状、
  2000年代からは発達障害が増えてきて、葛藤や罪悪感がないので内省に乏しく、
  また主体性のない人に心理療法家が直面することが増えてきていて、心理療法のパラ
  ダイムをゆるがすほどになっている。葛藤、罪悪感、主体性などの近代意識の特徴を
  持っていないこのようなあり方は、村上春樹の作品の中から浮かび上がってくるポス
  トモダンの意識の様相を呈しているのである。また村上春樹が日本だけではなくて、
  世界中で広く読まれていることからすると、その作品が世界での新しい意識のあり方
  も捉えていることを意味するかもしれない。
  (河合俊雄『村上春樹の「物語」ーー夢テキストとして読み解く』
   新潮社 2011.8.30.発行/P.104-105)

共同体や自然、宗教的・神話的世界から自分を切り離し、
「個」として独立した意識を持つようになる方向性が近代意識だともいえるだろうが、
そのなかで現れてくるのは、主体性でもあるが、
まら罪悪感、葛藤、不安、自意識といったものでもある。
自分のなかのもう一人の自分との葛藤から、神経症的な状態にもなる。

そうした近代的な意識から現代的なポストモダンの意識への移行するなかで、
そうした自分で自分を縛っていた意識がなくなってきて、
自分のなかのいろんなものがバラバラになってしまう状態が訪れる。
いわゆる狭義の意味での「主体性」が失われてくる。
前近代的な共同体のなかでの自分、自然との一体感、
宗教的・神話的世界のなかでの自分といったものが失われて、
ある意味主体のアナーキーな状態になってしまう。

おそらく、そういうアナーキーな主体の状態のなかで、
そういうポストモダン意識を超えた意識へと向かわなければならないのだろうが、
それが見えない五里霧中のような状態に耐えられず、
近代を逆行したいわばプレモダン意識に逆行してしまうことも多いのではないかと思われる。
『1Q84』で描かれている「リトル・ピープル」もそのひとつかもしれない。

シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』で、
神秘修行の過程において、思考、感情、意志が切り離され、
それ以降は、自らがその関係を高次のものとして関係づけられなければならなくなる、
ということが示唆されているが、
それになぞらえていうならば、
前近代(プレモダン)意識から近代意識からポストモダン意識へという流れは、
かつては自明のものとして前提とされていたもの、
つまり共同体や自然、宗教的・神話的世界、そして思考、感情、意志の関係性が、
いちど崩れてしまい、「個」としての主体性の中で再構築された後、
その主体性のあり方がさらに不安にさらされるなかで、
今度こそそうした前提事項がバラバラになってしまった状態のように思える。
しかし、「ビッグ・ブラザー」はすでに「壊死」してしまっている。
そこで、その不安から、なにかにすがりつこうとすることで
「リトル・ピープル」があらわれる。

それは、プレモダンとしてあった共同体や自然、宗教的・神話的世界であるように
その姿を現すこともあれば、
それらをリニュアールしたあり方で現れてくることもあるだろうが、
プレモダンをそのまま現代に持ってきても、
それはある意味「時期はずれの善」とでもいえるTPOエラーを起こしてしまう。
さまざまな「共同体指向」にもおそらく多くそれが見られるのではないだろうか。
ニューエイジ的な方向にしても、実質的に過去のリニューアルであったり、
「愛」を語る「リトルピープル」であったりもするように見えることが多い。
もちろん、人智学という名前でそれがあらわれても、そうでない保障はない。
単に主体の不安を「共同体」で解消しようとしたりすることである場合もあるかもしれない。

村上春樹の作品が世界で多く受容されているのは、
すでに近代意識だけでは生きることの難しくなっている状態のなかで、
ある部分ポストモダン意識状態でもあり、同時にそれが
ひょっとしたらプレモダン意識への逆行かもしれない状態である
そんな現代の意識のあり様を深層から実感させてくれるからなのかもしれない。
もちろん、そこに明確な「答え」があったりはせず、むしろ迷路のなかのまま。
しかし、自分がそういう迷路のなかにいるということを夢の中で見せてくれる。

  村上春樹の世界がおもしろいのは、単に無責任に軽く流れていくポストモダンの意識
  を描いているからではなくて、近代意識を飛び越したことで、前近代のあり方が噴出
  してくるところなのである。その意味では、夏目漱石が前近代と近代との間の葛藤を
  描いたとするならば、村上春樹は、前近代とポストモダンの意識の解離を描いている
  と言えるかもしれない。そのあたりに村上春樹の作品世界の二重性の秘密がある。
  (河合俊雄『村上春樹の「物語」ーー夢テキストとして読み解く』
   新潮社 2011.8.30.発行/P.110)

さあ、そういうなかで私たちはどうするか。
バラバラ事件の主体性、バラバラになった思考、感情、意志の関係を
どのように再構築させていくか。
その「自由」において、精神科学的な叡智の力が今求められているように思える。