風のトポスノート792
逆向きの時間と永遠解く力
2011.8.21



  「未来から過去」に向かっている時間を、もう一方の「過去から未来」へ流れる
  時間と同じように私たちのカラダの中に実現するためには、大きな発想の転換が
  求められます。
  (・・・)
  作曲家が、一つの音楽作品を作曲するのはまさに、この未来の可能態から流れて
  くる逆向きの時間の中で行うのです。
  (笠井叡『カラダという書物』書肆山田/2011.6.30.発行 P.233-236)

佐村河内守作曲の『交響曲第一番<HIROSHIMA>』(大友直人指揮・東京交響楽団)を聴く。
佐村河内守(1963-)は、広島の被曝二世で、聴覚障害などに悩まされ現在は全聾。
まったく聞こえなくなってから、この交響曲は作曲されたという。

  17歳から真似事のように作り始めて、12交響曲がありましたけど、それをな
  ぜ捨てることになったかというと、耳が全く聞こえなくなって、内側からしか音
  を見いだせなくなって、そのとき初めて自分流の、必然的に内側でしか生まれて
  こない作曲法を見つけたときに、これは自分にとって真実の音だろうと思ったん
  です。いままで作ってきたものは作為くさくてしょうがなくなって、それで破棄
  して、また1番から出直して、これを書き上げたんです。
  (intoxicate#93 佐村河内守インタビュー「音楽との対峙に求めるもの」より P.19)

上記引用にある笠井叡『カラダという書物』の章のなかに、音楽を聴くことで
「未来から過去」の時間を捉えるための練習方法が書かれている。
第一に、スピーカーから出る音である「外の音」を聴く。
第二に、鼓膜の内側のカラダの中で響いている音である「内の音」を聴く。
そして第三に、現在入ってきた音の余韻だけを持続させて
過ぎ去っていく音を集中的に聴くこと。
この第二の聴き方が、「これからやってくる音、
つまり予感の中の「未来の音」を、持続して聴き取ること」であるという。

  この三つの聴き方が「現在」「未来」「過去」、あるいは「今」「予感」「残像」、
  あるいは、「辛さ」「甘さ」「苦さ」としてきれいに分裂するところまで練習す
  るならば、逆向きの時間の一歩手前まで来ています。
  (笠井叡『カラダという書物』P.238-242)

佐村河内守の「必然的に内側でしか生まれてこない作曲法」というのは、
「予感の中の「未来の音」を、持続して聴き取ること」なのかもしれない。
ちょうど笠井叡の著書の当該のところを読み進めていたところ。
ふと目にとまったのがこの佐村河内守の『交響曲第一番』だった。
直前まで、視覚障害のバイオリニスト、川畠成道の
『耳を澄ませば世界は広がる』(集英社新書)を読み、
その音楽をいろいろ聴いてみていたその後でもあった。

また、昨年から、さまざまな人の「時間論」を読み、
あれこれと自分なりに時間について考えてみたりもしていたところだった。
時間は流れない、あるのは現在だけである、時間とは出来事である、云々。
そして、「永遠」とは・・・・とさまざまに考えは広がっていたのだが、
そんなおりに、シュタイナーの神秘学を背景にもっている
笠井叡の著書を読み進めていたのだった。
そしてこのところ、さまざまなところで、シンクロするように、
「時間」についての示唆を目にするようになっていた。

たしかに時間が流れるという表現は、比喩でしかないだろうし、
実際は、実在的な「永遠」の相にあるところから、
刹那滅的に出来する「出来事」が生気しているということなのだろう。
ある意味、「可能態」としての事象が映画のフィルムの一コマのようになって、
しかもそのフィルムの一コマのなかに私たち自らが「カラダ」をもって生きていて
同時に「永遠」の相から世界を創造しているということのように思う。

そんななかで、通常は、過去から未来へ流れている時間があり、
上記引用にもあるように未来から過去に向かう時間をとらえる訓練がある。
1日をふりかえって現時点からその日の始まりまで辿り直すというのもそれだ。
それをおしすすめて、「未来の可能態」から現在へという逆向きの時間を把握する。

「必然的に内側でしか生まれてこない作曲法」というのは、まさに
「作曲家が、一つの音楽作品を作曲するのはまさに、
この未来の可能態から流れてくる逆向きの時間の中で行う」ということだ。

ある意味で、そういう「作曲法」を背水の陣で
「未来の可能態」から自らの意志で行っているのが佐村河内守なのだろう。
奇跡のように創られた『交響曲第一番』は、圧倒的な真実を伝えている。
「闇が深ければ深いほど、祈りの灯火は美しく輝く」と作曲者は言う。

自由な、そして創造そのものでもある生きた思考は、
深い意志を携えて私たちのところに降り注いでいる。
過去からやってくる死んだ思考ではなく、
囚われた現在という檻のなかで蹲る感情でもなく。

若くして亡くなったケータイ短歌の歌人、笹井宏行にこんな短歌がある。

  えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

永遠を解く力は、「未来の可能態」からやってくる自由な生きた思考にある。
その「未来」はただ投影された幻想ではない。
「今」は、過去にとらわれた牢獄の「現在」でもなく、抽象的な「瞬間」でもない。
「永遠の今」は、まさに常に創造そのものでもある「相」からとらえる必要がある。
道元の「有時の而今」というのもそれ。
世界を現成させる「空」に立脚した「時」である。