風のトポスノート789
「問い」を探す
2011.5.17



   卒論も修論も、テーマは先生から与えられる。だから、目標は最初から
  だいたい示されている。卒論では、そこへの道筋、つまり問題解決への手
  法も与えられる。卒論生はそれを実行するだけだ。いうなれば、目的地も
  わかっているし、地図もある状態で、それに従って歩いていくようなもの
  だ。もちろん、実際の道には、予想外の困難が待っているけれど、でも、
  とりあえず、どちらへ進んだら良いのかと迷うことはない。ある意味でこ
  れは、研究というよりは労働に近いものだといえる。
  (中略)
   喜嶋先生から僕はこんなふうに聞いた。
  「何を研究したら良いかを自分で決められるようになったら、もう一人前
  だ。そんなことが学生にできるわけがない。天才でもないかぎりね。それ
  は、どんな立派な研究者でも同じだ。常に考えていることは、どう考えれ
  ば良いかではなくて、何を考えるのかだ。問題がどこにあるのか、をいつ
  も考えている。問題さえ見つければ、もうあとは解決するだけだ。そんな
  ことは誰にだってできる」
  (森博嗣『喜嶋先生の静かな世界』講談社 2010.10.25.発行/P.144-146)

問いと答えの関係には、大きく二つある。
最初から答えがあることがわかっていて
それを導きだすための問いであるとき。
そして、答えがあるかどうかはわからないにもかかわらず
問いが立てられるときである。

それを「守」「破」「離」というプロセスに置き換えてみると、
前者は「守」を出ることはない。
「守」を出るためには、
最初に予定してあったもの「答え」以外の「答え」を
見いだす、もしくは見いだそうとする必要がある。
「破」である。
学校などで学ぶことは、「守」を出ることは戒められる。
自由に考えなさいといわれていても、実際はそんなことは希だろうし、
そういうことを無際限に許してしまえば、「秩序」が保たれない。
決まったことは決まったことであって、それ以外はないのが原則。

しかし、「破」は
あらかじめ設定されている「答え」から自由になってはいない。
あくまでも当初の「答え」との関係性に縛られている。
目的地やそこに至る道に対するアンチにすぎない。

重要なのは、自由に問題を立てられるかどうかということである。
いわば、「離」。
宗教的にいえば「発心」ということになるだろうか。
上記の引用でいえば、
「問題さえ見つければ、もうあとは解決するだけだ。」
時間がどれほどかかるかはわからないが、
それは最初に答えを前提とした問いではない。
ボランティアというのも、本来はそうしたことに通じているはずのもの。

なにも決められていないことに取り組むということは、
そこに何の保障も、有効な結果も、なにも前提とされていないということである。
やみくもになにかをするような無謀さは別として、
世の中ですでにパターン化されている道を歩まないということは、
自分がどこを歩いているのかだれも保障するものがない。
「水の試練」のように、足の着かないところを泳ぐようなもの。
たとえおぼれてしまうかもしれないとしても、
問題がおぼろげにも見えたときには、腹を据えて歩まざるをえない。

実際、考えるということはそういうことだ。
あらかじめ答えのあることを調べて
いわば「検索」して回答欄に書くというようなことではない。
知識をいくらためこんでも、それは考えるということにはならない。

世の中を生きやすくするためには、
考えることはむしろ余計なことになる。
受験勉強だって、ほんとうに考えようとすればまずうまくいかない。
要求されていることの多くは考えることではないのだから。

しかし、いちど「考え」ようと思ったとしたら、
そして生きやすくするために「考える」ことをやめなければ、
目的地もそこにいたる道も定かならぬままのプロセスが続いていくことになる。
そして「問い」を見つけて「答え」にたどり着いたとしたら、
またあらたな「問い」を見つけるプロセスに向かわざるをえない。

だからこそ、世の中では「問い」を探して「考える」ことではなく、
すでにある「問い」を調べて、その「答え」を「検索」しようとする。