風のトポスノート787
観念を燃やす
2011.5.6



   いまここにマッチがあれば、火をつける条件が整う。マッチでつけた炎が、
  十分に燃え続けたら、それはやがてマッチをも焼き尽くすだろう。火をつける
  のはマッチだが、そのものがマッチを焼き尽くす。無常の教えもこれと同じだ。
  無常の教えが無常への理解をめざめさせ、無常の洞察が無常という観念を燃や
  し尽くすものとなる。
   私たちは永遠不変という観念ばかりではなく、無常という観念をも超えなけ
  ればならない。これによって涅槃に触れることができるのだ。無我も同じで、
  無我はマッチのように、無我の洞察の火を燃やしてくれる。無我に目覚めた理
  解の力によって、無我というマッチが焼き尽くされるのだ。
   無我、無常、涅槃などの観念を貯めこまないために、私たちは修行をする。
  貯めこむだけならカセットレコーダーと同じだ。いくら観念を詮索しても、吹
  聴しても、それは仏教の学修や修行にはならない。大学に行けば、仏教を学べ
  るが、理論や観念の学びにすぎない。私たちは観念を超えて、真の洞察を得る
  ことをめざしている。それは、すべての観念を燃やし尽くして自由になること
  なのだ。
  (ティク・ナット・ハン『死もなく、怖れもなく/生きる智慧としての仏教』
   春秋社 2011.3.20.発行 P.24-25)

熱い思いは言葉にできるだろうか。
深い悲しみを言葉にできるだろうか。

どんなに正確にそして微に入り細にわたって
言葉という道具を使うことができたとしても、
言葉にするしか方法が見つからないとしても、
愛する気持ちは言葉ですべて表現できるようなものではない。

しかし、言葉、言葉、言葉。
言葉を諦めることはできない。
諦めないためには、言葉の限界を見定めた上で、
その乗り物を使って行けるところがどこなのかを知る必要がある。

月を指す指は月ではない。
いくら指を見つめても月は見えない。
必要なのは月を見ることだ。
月を見ることが目的ならば、
示されたのが月であることがわかれば指にこだわる必要はない。

また、月を見ることができたとしても、
それで月について理解できることは多くない。
わかるのは、空に月がでているというそのことだけだ。

無常や無我という言葉は、月を指す指のようなものである。
それ以前に、そうした言葉を発する人や書物のほうばかりを見つめて、
肝心な言葉のほうには向かわない、指さえ見えないこともあるだろう。
しかし、無常や無我という言葉は、指であって月ではない。
そのことに気づいて、無常や無我という言葉の指している概念を
それなりに理解できたとしても、
それは月がでているということに気づくことができたということにすぎない。

ここまで書いてきて、ふとヴィトゲンシュタインのことを思い出した。

ウィトゲンシュタインは『論理哲学論論考』で、
世界は相互に連結された諸々の原子的事実の総体からなっていて、
言語による命題群は世界の「像」、つまりは写像関係を持っているとしたが、
その後、『哲学探究』では、「言語ゲーム」というコミュニケーション行為に視点を移した。

前者でいえば、世界は無常であり無我であるという命題を
世界の「像」のひとつであるとすることで完結していて、
後者でいえば、「無常」「無我」という言語によって
どのようなコミュニケーション行為が成立するかが問題になる。

無常や無我という言葉をいくら使えたとしても、
その言葉を使ってなにがしかのコミュニケーションができたとしても、
それはそれだけのことにすぎない。
禅の公案で、無常や無我という言葉が使われていたとしても、
そこで重要なのは、ある意味で、上記引用にあるように、
そうした言葉にとらわれないように、
その「観念を燃やす」ことであるといっていいのかもしれない。

燃やすための燃料を確保することは大切なことだが、
それは燃やさなければ暖を取ることはできないし、料理をすることもできない。
ただ燃料を備蓄するだけに終始すれば、その置き場がたくさん必要になるだけなのだ。

死や怖れを克服するために、
死や怖れについての膨大な観念を集めてみたところで、克服できはしない。
むしろさまざまな観念にしばられるだけのことだ。
必要なのは、集めてきた燃料としての観念を実際に燃やしてみることなのだろう。