風のトポスノート783
与えられたものを返すこと
2011.12.27



   天賦の才能というものがある。
   自己努力の成果として獲得した知識や技術とは違う、「なんだか知らない
  けれど、できちゃうこと」が人間にはある。
   「天賦」という言葉が示すように、それは天から与えられたものである。
   外部からの贈り物である。
  (中略)
   「自分の才能が自分にもたらした利益はすべて自分の私有財産である。誰とも
  これをシェアする必要を私は認めない」という利己的な構えを「危険だ」という
  ふうに思う人はしだいに稀な存在になりつつある。
   でも、ほんとうに危険なのである。
   『贈与論』でモースが書いているとおり、贈り物がもたらした利得を退蔵する
  と「何か悪いことが起こり、死ぬ」のである。
  別にオカルト的な話ではなくて、人間の人間性がそのように構造化されているの
  である。
   だから、人間らしいふるまいを怠ると、「人間的に悪いことが起こり、人間的
  に死ぬ」のである。
   生物学的には何も起こらず、長命健康を保っていても、「人間的には死ぬ」と
  いうことがある。
   贈与のもたらす利得を退蔵した人には「次の贈り物」はもう届けられない。
   そこに贈与しても、そこを起点として新しい贈与のサイクルが始まらないとわ
  かると、「天」は贈与を止めてしまうからである。
  (中略)
   逆に天賦の才能をもっぱら自己利益のために使うと、才能はゆっくり目減りし
  てくる。
   才能を威信や名声や貨幣と交換していると、それはだんだんその人自身から
  「疎遠」なものとなってゆく。
   他人のために使うと、才能は内在化し、血肉化し、自分のために使うと、才能は
  外在化し、モノ化し、やがて剥離して、風に飛ばされて、消えてゆく。

  (内田樹の研究室「2010.12.26 才能の枯渇について」より
    http://blog.tatsuru.com/2010/12/26_1356.php)

「天賦の才能」をもったひとを羨ましいと思わないわけでもないけれど、
そういう才能がそこまでほしいかというと、そうでもない。
なんだか面倒くさい気がする。

面倒くさいというのは、
なまじそんなものを持ってしまうと、
それをなんらかの形で使わないわけにはいかなくなるからだ。
自分の「分」を超えたものを持ってしまうと、
そちらの負担のほうが大きくなる。

もちろんその面倒くささは、
むしろネガティブなかたちで
ある種の能力を欠損させて生まれてくるということも
おそらくはぼくの選択肢にはなかったようにも感じている。
能力の欠損という条件をジャンピングボードにできるほど
ぼくの能力は高くないということでもある。

環境に関しても、
それが自分に決定的に及んでしまうような要素を極力排して、
なんとか生きていける最低限のものだけを用意して生まれてきた。
恵まれすぎている要素はまるでないけれど、
かといってあまりにも破壊的な要素だけは少なくして、
ほどほどに抵抗力の育ち得るくらいにして。

しかし、あらためて考えてみると、
才能がこれといってないで生まれてきたというのは幸いだと思う。
才能にふりまわされないでいられるからだ。
「なんだか知らないけれど、できちゃうこと」なんかまずないからこそ、
なんでもない、だれにでもできるようなことだけをベースにして、
マイペースで事を進めていくことができる。
「おまえは空を飛べるのだから、そら飛べ!」と言われなくてもすむ。

つまりは、通常のスタートラインにならんで、
自分の好きなやり方で好きに進んでいくことができるということだ。
歩いたぶんだけが進んだところであり、それ以上でも以下でもない。
上記の表現でいえば「人間」でいることができるということでもある。

しかしあらためて考えてみれば、
「人間」でいることができるということは、そのままで
とても素晴らしい「贈り物」だということもいえる。
そして、それも「贈り物」である以上、
上記の引用にあるような贈与の法則は適用されるが、
著しく「才能」に恵まれたひとほどの
追い立てられるような「贈与のサイクル」ではない。

ほどほど、身の丈で、
自分を人間として生かしてくれるだけのものを
シェアしていけばいい。
身の丈を間違えて大きく見せようとかさえしたり、
過剰に利己的になったりさえしなければ、
「危険」というほどにはならないだろう。

しかし人間は自分のことは見えていなかったりするので、
「与えられている」ことにはひどく鈍感である。
与えられていることに気づくことができなければ、
それを自分のものにしないで返すことができない。
大きく与えられたならば大きく返さなければならない。
才能があろうがなかろうが、
さまざまなものに恵まれていようがそうでなかろうが、
基本は変わらない。

与えられたものを返すということは、
おそらくは宇宙の大きな血液循環のようなものなのだろう。
流れがとまってしまったら病気になり死んでしまう。
食べ物を食べるときにに「いただきます」と感謝するのも、
せめてその流れを閉ざさないための礼儀だということもできる。

・・・そんなことを考えていけば、
ささいなことで自分が損をしているとかいうような
つまらない思いからは自由でいることができる。
それがたんなる思い込みだとしても
すくなくとも平穏な気持ちになることはできるように思えるのだ。

年末にあたって、
平穏でいるためのひとつの簡単な発想のひとつ。