風のトポスノート780
平気で生きて居る事
2010.12.6



先月からあまりに書かないでいるのだけれど、
そういうときにはいろんなことに凝っているときのような気がする。
そういえばこの一年はずいぶんさぼったけれど、
そのぶん、ずいぶんいろんなことに耽っていたようだ。
五十歳を超えてから、特に最近になって、
見たり読んだり聞いたりすることの質がずいぶん変わってきたように思う。
見えてなかったものが見えたり、聞こえなかったものが聞こえたり。

正岡子規は『病床六尺』で、次のように言っているそうだが、
そんなことにもつながっているようだ。

  余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。
  悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと
  思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場
  合にも平気で生きて居る事であつた。
  (明治三十五年六月二日)

もちろん、まだまた「平気でいきて居る」ことは難しい。
「平気で死ぬる事」とかいうのよりもずっと難しい。
平気で死ねない人はおそらく生きることまで行かないのだろう。

正岡子規といえば、『坂の上の雲』の香川照之の演技が強烈である。
そういえば、『坂の上の雲』に『龍馬伝』に『白洲次郎』に、と
テレビドラマで、明治維新から日清戦争、日露戦争、第二次大戦と戦後など、
時代のエポックで活躍した人物が次々とクローズアップされている。
時代の変わっていく時期ということを意識せざるをえない。
今という時代も、ずいぶんだけれど、渦中にいると見えないことも多い。
見えていても見えていないこともずいぶん多いはずだ。

今ぼくがあたりまえのように見ていることも、
ぼくの二十歳のころのことをふりかえってみるだけで、
その頃はまるで見えていなかったさまざまなことがたくさんある。
もう少し生きることができれば、同じように今もまたそうであるはずだ。

世界観ということがずっと気になっている。
どちらが正しいとか正しくないということではなく
ある世界観では存在しないことも、ある世界観では存在する。
自分はどんな世界観をもって生きているか考えてみる。
それはある程度意識できるところもあるが、
自分を外から見ることができないために
無意識的に自明のものにしていることも多いだろう。
どちらにしても、自分はいったいどうしたいのか、どうありたいのか。
それを問わないままでいると、そこから前には進めないことが多いだろう。
そのためにも、できれば「平気で生きて居る事」を切に望む。

「平気で生きて居る事」というのは
ある意味、「存在者」であることを
「存在」でしっかりと裏付けることを必要とするのだろうから。