風のトポスノート772
「反」(アンチ)から脱するために
2010.10.19



   中国では「反政府」デモは制度的に禁圧されている。
   だから、「反日」の看板を掲げて、鬱積した「反政府」の怒りを暴発させる
  ということは、国民の側からする狡猾なマヌーヴァーとしては「あり」である。
   つまり、政府も国民も、「反日」という「検閲済みの看板」を掲げて、それ
  ぞれの「検閲を通らない欲望」をリリースしているのである。
   デモの帰趨はわからない。
   おそらく今度のデモそのものは大事に至る前に、それが少しでも反政府的な
  意図を暴露すると同時に、鎮圧されるだろう。
   けれども、「反日」を掲げさえすれば、政府は「とりあえず」手を出さない
  ということを、反政府的な心情を抱く中国人たちが経験知として学んだ場合に、
  このあとも繰り返し、「反日」デモが噴出する可能性はある。
   それに対して、私たち日本人が感情的に反発するのはごく自然なことだけれ
  ども、それより先に、私たちは「あなたはそう言うことによって何を言いたい
  のか?」という分析的な問いを隣人に向けるべきだろうと私は思う。
  (内田樹の研究室:「反日」の意味について
   http://blog.tatsuru.com/2010/10/18_1550.php)

今後、この問題がどの方向に向かっていくのかはわからないが、
少なくともこの問題で、政治問題云々ではなく、
私たちがみずからの態度として学ぶことがあるとすれば、
私たち自身が、集団的にせよ、個人的にせよ、
こうした「反日デモ」的なことをしていないかということを自省してみることだろう。

「反」つまり「アンチ」は、ダムを解放するように、
なんらかのエネルギーを解放するためにはわかりやすい方法である。
ことばをかえていえば「〜が悪い」ということで
自分のかかえている問題を見ないようにするということである。
「日本が悪いから私たちは貧乏だ」とか
「夫(もしくは妻)が悪いから私は幸せになれない」とか。

見ないようにするわけだから、
肝心の問題がそこで解決されたり有効に方向づけられたりすることはむずかしい。
たまたまそこにあったモグラを叩くことができる可能性も否定はできないが、
それはたまたまであって、自覚的なものであることはできない。

ダムを解放してしまうことは、
その水がある一定以上集まってしまうと
その下流地域を危険に陥れることにもなりかねない。
洪水が肥沃な土地をつくる重要な契機になることもありえるが、
そこには大変なリスクがあるということは知っておく必要がある。

「大人が悪い」と反抗する子どもも
「男が悪い」と戦う女性も
「政治が悪い」とプロテストするジャーナリストも
そこにあるみずからの問題を見ないかぎり、
(たとえ、ほんとうに大人や男や政治が悪いのだとしても)
どこにも行けないどころか、
そのエネルギーはおそらく自分が本来向かうベクトルを見失わせ、
別のベクトルで自分をどこかに連れ去ってしまうこともあるように思う。

つまり、「反・・・」のエネルギーが自分に生まれそうなときには、
外的なものにむかって、
「あなたはそう言う(する)ことによって何を言いたい(何がしたい)のか?」と問い
みずからに対して、
「私はそう言う(する)ことによって何を言いたい(何がしない)のか?」と問うことで
混乱を収拾し、冷静に現状を見据えるのがいいのだろう。
相手(外的なもの)を変えることは難しいだろうが、
自分ならそれなりに制御可能である。

結果はもちろんわからない。
冷静に見据えたからといって、なにかが解決するわけでもないだろうし、
場合によれば、そこでハチャメチャに爆発でもしたほうが結果オーライになるかもしれないが、
少なくともそこで自分を見失ってしまうことは少ないはずである。