カウンセリングというのは悩みをなくすようなものではなくて、 
            「悩みを正面から悩む」ものだと言えるでしょう。われわれは皆、 
            悩みをなかなか正面から悩んでいません。つまり「自分は頭が悪い」 
            と思いかけては、本当にそう思うと辛いので、頭が悪いようだけど、 
            少しはいいところもあるじゃないかと誤魔化している。誤魔化して 
            いるけれど、やはりそのことでずっとヒヤヒヤしている。もっと正 
            面からこうだと欠点を見る態度、これがカウンセリングだと思いま 
            す。だから、そういう意味では、カウンセリングというのは非常に 
            厳しいものです。 
            (河合隼雄『河合隼雄のカウンセリング入門』創元社/1998.9.20発行/P.126) 
        ものごとをどんどんどんどん突き詰めて考えようとすると、 
          どこかでそこからはどこにも行けそうもない壁につきあたってしまう。 
          おそらく絶対的な解答というのは見つけることは難しい。 
          宇宙の根源がなにかということも実際のところわからないし、 
        なぜ自分がここにいるのか、生きているのかということも実際のところわからずにいる。 
        だから、どこか適当なところで妥協点を見つけることで私たちは生きている。 
          その妥協点をどこで見つけるかという態度が 
          ある意味で、その人の魂のありようを表しているともいえる。 
        カウンセリングが必要になるというのは、 
          その妥協点をどこで自分なりに腑に落ちる仕方で見いだすかを 
          自分一人では決められない状態にあるからだろう。 
          言葉をかえていえば、自分ひとりだけで悩むことができない。 
          自分ひとりで悩みを抱えようとするとすぐに破綻してしまう。 
        悩みを見据えるためには、ものすごいエネルギー、 
          しかもある程度方向を定めた形でそれを有効に作用させる必要がある。 
          だれでもそのエネルギーはもっていると思うのだけれど、 
          それをどのようにもっていけばいいかわからずにいる。 
          そして自分なりに腑に落ちる妥協点のようなところで 
          そのエネルギーを作用させることができずに、 
          壁のずっと手前のところにある迷路で右往左往したり、 
          妥協点を過剰に超えたところ(たとえば死ぬこと)に短絡的に視点を設けたりもする。 
        「767◎「受け入れる」という役割」で少しふれたが、 
          人は「受け入れて欲しい」という気持ちをだれでもがもっている。 
          できれば、無条件で自分を認めて欲しい。 
          自分が認めた人や存在から、あなたが必要だと言われたい。 
        その「受け入れて欲しい」、承認されたいという気持ちから、 
          ツイッターではフォロワーの数を増やそうとしたり、 
          ホームページではアクセス数を気にしたりする。 
          そして自分の趣味や嗜好や行動を方向づけるときにも、 
          いわゆる「世間様がどう思っているか」を基準にし、 
          人気投票や流行、さまざまな「評価」を気にしたりする。 
          携帯電話でいつも話していないと寄る辺なかったりするのも、 
          そうした「受け入れられている」という状態にしがみついていなければ、 
          生きていけないからなのだろう。 
          そして、それが本当に受け入れられているわけではないことが多いことは 
          本人がいちばんよくわかっているものだから、なおさらその状態にしがみつかざるをえない。 
          そうした状態を自分のその時点での「妥協点」としているからだ。 
        「妥協点」はひとそれぞれで、 
          「そういうものだ」で生きていける人はそれはそれで幸せなのだろうけれど、 
          どちらにせよ、「悩み」は人がかわって引き受けてくれたりはしない。 
          人がかわって息をしたり、食べたりできないのと同じ。 
          そして、その「悩み」を「正面から悩む」ことができる力を 
          なんらかのかたちで自分に蓄えていく必要がある。 
          その力がなければ、おそらく多くの場合、その「悩み」は外からの力として、 
          つまりさまざまな問題としてふりかかってくることになる。 
          そしてそれらを自分の問題として正面からとらえることができない。 
        「悩みを正面から悩む」というのは、 
          その外からくる力を自分の内的な力を育てることで、 
          自分に可能なだけのせいいっぱいの「妥協点」を見つけることなのではないだろうか。 
          言葉をかえていえば「自由への道」。 
          自分にできるせいっぱいの安心立命の境地というのは、 
          その「悩みを正面から悩む」ことによってしか得られないのだろう。 
      ある意味、道元の只管打坐や親鸞の南無阿弥陀仏もそのひとつのありようなのかもしれない。  |