風のトポスノート765
「もの」と「こと」
2010.9.17



   日本語には「もの」という言葉がある。それは一方では「存在者(ザイエンデス)」
  という哲学用語の代役をなしうる言葉でもあると同時に、他方では、「おのれをまさ
  しく示さないところのもの」を示す言葉でもある。和辻氏が『日本精神史研究』に語
  ったとおり、「もの」とは「個々のもののうちに働きつつ、個々のものをその根源に
  引く」はたらきを指して言う言葉である。そして「もののあはれ」とは、そうした
  「おのれを示さない」ものがそれとしてあらわになることに他ならない。ハイデッガ
  ーが「言葉が欠けている」「『文法が欠けている』」と言って嘆いた、存在者の底ー
  ーあるいはむしろ、存在者の無底ーーを示す言葉。それが日本語にはそなわっている
  のである。
   しかもわれわれは、それと同時に、「こと」という語をもち、事が事として出現す
  るのを受けとめることができる。そして、われわれはこの「もの」と「こと」とを自
  在に交差させて、「人生はむなしいものだということが、この年になってようやくわ
  かった」などと言うことができるのである。
   和辻氏が「日本語と哲学」のメモに記していたとおり、日本語は決して「底力を持
  たぬのではない」。むしろ、そこには底知れぬ力がそなわっていると言うべきであろ
  う。
   この底力は、ふだんはわれわれ自身に少しも意識されない。それは、こんな風にし
  て直接に「哲学」とぶつけ合わせてみるとき、はじめてその実力のほどを見せつけて
  くれることになるのである。いまここに見たのは、もちろん、その底力のほんの一端
  にすぎない。まえにもちらとふれた、日本語の「てにをは」のもつはたらきは、いま
  見た「もの」と「こと」の補完的なはたらきとあいまって、われわれの「わかり」の
  形をつくり上げている。それをたずさえて「哲学の根本問題」に挑むとき、そこにい
  かなる知のドラマがくりひろげられることか……。
   日本語の哲学への道は、いまようやくその入口をあらわしたばかりである。
  (略)
   われわれは「もの」と「こと」という二つの語をもつことによって、この世界を、
  事物と事象という二つのジャンルに分けて眺めることができるのと同時に、この世界
  の生成と消滅との両側面を二つながらに凝視することができるのである。
  (長谷川三千子『日本語の哲学へ』ちくま新書 2010.9.10.発行/P.238-239/P.232)

私たちは、言葉でものを考えているのだろうか。
それとも言葉のむこうにあるものを言葉という窓口をつかって考えているのだろうか。

「ものを考えている」というときの「もの」は目に見えない。
ある意味、それは「物」ではなく「霊(もの)」である。
それが言葉という姿をとって思考化される。
とはいえ、おそらくすべてがその乗り物に乗れるわけではないし、
乗り物に合わせて変形したり変質したりすることもあるだろう。
しかしその乗り物がなければ、「霊(もの)」は世界に現れることが難しい。

だから、言葉は道具であるがゆえの矛盾をかかえることになる。
言葉をたくさん知っていることはとても役に立つが、
それが逆にさまざまな関所をつくってしまうところもある。

私たちは「言葉」を使って考えもし、
また根源にある「霊(もの)」が「言葉」にならないで
胸がふたがってしまったりもすることもある。
それと同時に世界は言葉そのものによって現れてくるということもいえる。

言葉は道具でもあるが、
世界は言葉のなかに生成してくるともいえる。
ことばの「こと」は、「言」でもありまた「事」でもあり、
事として出来してくることが言として表出されてくるところがある。

また、「もの」は、目の前にあるさまざまな「物」であるとともに、
物が物として現れてくるその根源である「霊(もの)」でもある。

そうして「~という<もの>だという<こと>」というように、
見えないものを事としてとらえ、それを言として世界に表してみたりする。

さて、この「こと」と「もの」については思い出があって、
廣松渉の「物的世界観から事的世界観へ」というテーマを使いながら、
学生時代、「こと」と「もの」についての国文学のレポートを書いたことがある。
この長谷川三千子『日本語の哲学へ』ではそれが「補注」で批判されているが、
かつて読んだはずの廣松渉の著作の内容も、かつて自分が書いたはずの内容も、
きれいさっぱり忘れてしまっている。
覚えているのは、レポートを書いているとき、
「こと」と「もの」という言葉を使った日本語が頭の中をかけめぐっていて
なかば夢現のようになったことくらいだろうか。
実際、日本語の「こと」と「もの」というのは、
分かった気になったとたんに、するりとどこかに逃げてしまうような、
そんなところがあったりする。

これは日本語だけではないだろうが、
哲学と言葉というのは、お互いを映しきれない鏡像のようなところがあるような気がする。
しかし、哲学というのは、言葉なのだろうか。
それともそこに言葉へのダブルバインド的な愛憎を抱えながら
根源にあるかもしれない「もの」へと向かう道なのだろうか。
哲学は言葉そのものだととらえる人もいるだろうが、
そうなると言語ごとに哲学がかなり分かれて存在してしまうことになる。
そうでもかまわないが、それだけであるとするというのも不毛かもしれない。

ところで、長谷川三千子という方については、
かつて『バベルの謎ーヤハウィストの冒険』という著書について、
このトポスでコメントしたことがあった(1996年頃のこと)ことを思い出した。
http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/siso/fragments2.html
たしかネットでコメントされることが少なかったせいか、
こんな評があったとかいうことでリンク紹介がされていたようにも思う。