能舞台にはご承知のように橋懸りがある。橋懸りの奥に鏡の間というのがある。
そこには大きな姿見が備えてある。能の役者は、装束を着け終わるとこの大きな
鏡の前で面をかけるのである。面は、着るとも、つける、ともいうが、大方は、
かけると言い慣わしている。かける、とはむしろん顔につけるということだが、
何かを自分にかける(掛ける・懸ける)、つまり術をかける、という含みもある
ように思う。
面をかけるとき、演者は自分の姿を鏡にうつして見ている。自分を客体として
眺めているわけである。いかなり芸能でも、舞台に出れば観客に見られることが
役者の宿命で、したがって役者はいつも、見られているという意識から離れられ
ないものだけれども、その、見られるという意識、更にそこに必然的に出てくる
見せるという意識、それをいかになくすか。これは役者の大きな命題であり続け
たことだ。舞台という虚構をいかに実存に変えてしまうか。そのためには先ず演
者が、見せる意識を自分の中から取り除かねばならない。同時に観客を見るほう
の意識も変えなければ駄目だ。役者は観客を舞台上から仔細に見ているものなの
である。今日のお客さんは若いとか女性が多いとかよく笑うとか。こうすれば観
客にうける、こうしなければ反応が少ない、と読みながら演じようとするものな
のだ。その見る意識も見せる意識も超越した。それは世阿弥の言う、「離見の見」、
「見所同心の見」を持つことであろうし、「無心」の境地にもつながるだろう。
が、それを、能の役者は面によって得ようとする。面をかける、ということは能
の役者にとって、これから一番の能を演ずる自分の、心の状態と位置とをきめる
鍵なのである。
具体的に言うと、面をかける、ということは大変に辛いことだ。馴れぬうちは
ひと足歩くのも恐ろしい。何しろ見えないのである。不自由きわまりない。しか
も、自分の顔の角度をうっかり動かせば面が表情をしてしまうから一センチとい
えども理由亡く動かすことは出来ない。制約だらけである。ーーしかし、それな
のに、いやそれなればこそ、面をかけると、演者は自分の内側に自分を入り込ま
せることが可能になる。自分を、日常的な世界から飛躍した場所に持っていく手
立てとなるのである。
(観世寿夫『心より心に伝ふる花』角川文庫/P.100-101)
私たちが生まれてパーソナリティをもつということは、
「面をかける」ようなものなのだろう。
ペルソナはパーソナリティ。
私たちは、自分の姿を「鏡」にうつして、
自分のパーソナリティについて意識する。
そしていったん生まれてくれば、舞台上のように、
人から見られる存在ともなる。
ギリシア語では「仮面」を意味する言葉は、「呪う」という言葉と語源が同じだという。
人の視線は、ある意味「呪い」のようなものかもしれない。
そして多かれ少なかれ人はその視線の呪いを受けながら、
自分のパーソナリティを形成せざるをえないところがある。
おそらくこれも多かれ少なかれ、
私たちは、そのパーソナリティとしての「面」を
自分で選んで、そして「かけ」、生まれてくる。
しかし、面をかけたとたんに、
まさに、「馴れぬうちはひと足歩くのも恐ろしい」。
自分で自分が見えなくなるものだから、
あっちにぶつかりこっちにぶつかりすることも多く、
自分では思っても見ないうちに、
人の視線が私というパーソナリティを規定しはじめる。
「あの子はこういう子だ」というふうに。
焦っても、焦れば焦るほど、自分というパーソナリティは、
「呪い」のように自分という存在を縛り付けはじめる。
そして、そのときになって、
自分というパーソナリティを「鏡」にうつしても見るようになる。
もちろんそのときには、きわめて地上的に、
「面」を外した自分などのことは想像もできずに。
また、どこかで、これは果たして自分だろうかという気持ちを持ちながら・・・。
しかし、その「制約」こそを、
その「日常」における「制約」こそを
みずからの「自由」の基底としなければならない。
そのときはじめて「呪い」は「祝い(祝福)」となりえるのだろう。 |