世阿弥が六十代に書いた、『九位』という、芸の位を九つに分けて説いた著書が
ある。高位の三位を「妙花風」「寵深花風」「閑花風」とよび、これを「上三位」
とし、中の三位、「中三位」を「正花風」「広精風」「浅文風」、下の「下三位」
を「強細風」「強麁風」「麁鉛風」というように分けて、一つ一つに禅的解説をほ
どこした非常に内容の豊かな書である。そして、稽古の道順としては、真中の中三
位の初位、「浅文風」から入門して次第に上に登るようにするのが理想的だとして
いる。
(中略)
「妙花」の更に次、それは「九位習道の次第」に「此中三位より上三花に至りて、
安位妙花を得て、さて却来して、下三位の風にも遊通して、其態をなせば、和風の
曲体ともなるべし」とあるごとく、最高の芸位に登り得た者がその芸力をもって
「下三位」という下位の芸を演ずることなのである。これを「却来花」といってい
る。「下三位」の芸とは、「強細風」、すなわち「金鎚影動きて、宝剣光寒じ」と
いう、凄まじく強い芸ということになる。
(観世寿夫『心より心に伝ふる花』角川文庫/P.38-47)
この「九位」のとらえ方は、芸のことだけではなく、
おそらく人間の魂の成長においてもいえることのように思われる。
最初から粗雑に生きてしまうと
人は「下三位」から抜け出せなくなってもしまうものだから、
「中三位」から少しずつ自らを高めていくことを学ばなければならない。
しかしある意味で上を目指すことは
自分のなかの「下三位」をスポイルしてしまうことになってしまう。
それは自分のなかに「影」を色濃くつくってしまうことでもある。
逆にいえば、「影」を自分から切り離して、
それを見ないようにすることで成長するということである。
そうすることで、ある種の推進力を得ることができる。
そしてあるとき、自分の影に気づく。
自分の「光」は「影」を生み出しているのだと。
そして、「光」あるのは「影」ゆえでもあるのだと。
「上三位」を可能にしているのは「下三位」であるともいえるのだと。
「上三位」の「上」にあるのは、「上上三位」ではなく、
「上三位」が切り離してしまっていた「下三位」との統合だともいえるのかもしれない。
それはある意味で、キリストが死後、地下の最深世界に下っていったこととも似ている。
しかし、最初からそうすることは、大変危険な行為になる。
「影」はそんなにたやすいものではない。
また、「分かる」ということが「分ける」ということでもあるように、
「光」を可能にするために「影」を切り離すことも必要悪でもある。
分けたままでは世界は統合されることができない。
この「中三位」→「上三位」、そして「下三位」との統合というプロセスを
私たちの日々の経験のなかでも意識的にたどることもできるだろう。
自らを高めながら、しかもそのプロセスにおいて切り離されがちな「影」の部分を意識し、
その統合をはかるべく、キリストが弟子の足を洗うように、
みずからの「影」の部分の存在を認め、統合へと向かう。 |