風のトポスノート760
初心忘るべからず
2010.9.13

 

 

   「初心忘るべからず」という、有名な世阿弥のことばは、現在どうも間違って
  使われることが多い。よく結婚式の祝辞などで、「初めて会って好きになった頃
  のことを忘れずに……」というように「初心」を使われるが、世阿弥の「初心」
  はそういう意味ではない。あくまで「初めて事に当たる未経験な状態」である。
  「新鮮さ」とか「純粋さ」のことではなく、「未熟さ」につきる。だから世阿弥
  は「初心にかえる」のは「下手な時分に戻る」ことだとして「初心にかえる」こ
  とを否定しているのだ。いま代議士などが「初心にかえって……」ともっともら
  しい顔で演説したりしているのを世阿弥が聞いたら、さぞ嫌な顔をすることであ
  ろう。
   さてその「初心」であるが、「年来稽古条々」の演者ははじめて咲かせた花を
  過信してはいけない。もしこれを本物だと思って油断したりすればたちまち花は
  散り失せてしまう、と説いている。美しく、才能もある役者が、いったんは多く
  の観客を魅了したとしても、それに頼っていてはたちまち古臭くなってしまうこ
  とへの教えである。
  (観世寿夫『心より心に伝ふる花』角川文庫/P.22-23)

「初心」を忘れてはいけないのは、
その「未熟さ」を忘れてはいけないということである。
「初心」のことを思い出すことは必要なだとしても
「初心にかえる」ことがそのままで良いことなのではない。

「初心」を忘れないためには、
「初心」であったときのことを忘れてはならない。
忘れないでいることさえできれば、
「初心」のときの、
すべてがはじめての体験であったときのことも思い出すことができる。
だから、「初心」を忘れないでいることで、
「初心にかえる」という愚もおかさないですむことができる。

それは「プレ」と「ポスト」の混同を避ける意味でも重要なことである。
子どもであることと、子どものようであることは明らかに異なっている。
子どもであることはある時期においてだれにでも可能であるが、
年を経て、子どものようでいることはだれにでもできることではない。

しかし、上記引用の代議士の例のように、
「初心にかえって」という人にかぎって、
自分の身につけてきたさまざまな権威はそのままにしながら、
都合の悪いところだけを取り去ることができるようにアピールしたがったりする。
「初心」とは関係しないが、
その人のいわゆる「プロフィール」を見ると、
その人のことがよくわかるところがあったりする。
もちろん、具体的な営為からその人を推しはかれるるということもあるが、
それ以上に、その人が「こう見て欲しい」と思っている
さまざまなものが透けて見えるところがある。

ぼくは面倒なのもあるし、書くほどのプロフィールがないというのもあって、
自分のプロフィールをネットでもまったく書いてないけれど、
もし書くとしたなら、自分の「初心」の未熟さを反省できるものでありたいと思う。
間違っても、誇れるものなどなにもないのに、それをまことしやかに書くようにだけは
したくないものだと思っている。