風のトポスノート759
逆推理について
2010.8.26

 

 

   あるものを見たときに、継時的にそれを配列して、次に何が起きるかを推理する力と、
  あるものを見たときに、そこに至るどのような「前段」がありえたのかを推理する力は、
  まったく異質のものである。
   前進的・統合的推理をする人間は、一連の出来事を説明する仮説を立てようとすると
  きに、「うまく説明できないもの」を軽視ないし無視する傾向がある。
   自然科学においては、「仮説に対する反証事例」を、「許容範囲内の誤差」として処
  理する態度がそれである。
   けれども、ホームズ型の知性は、「仮説に対する反証事例」、つまり、「うまく説明
  できないもの」を導き手(guide)として推理をすすめる。
   それが出来合いの仮説では「うまく説明できないもの」であればあるほど、「それを説
  明できる仮説」の数はむしろ絞り込まれてくる。
   「うまく説明できないもの」とは、ロラン・バルトの用語を流用すれば、「鈍い意味
  (le sens obtus)」である。
   「私の理解がどうしてもうまく吸収することのできない追加分として、『余分』に生ず
  る、頑固であると同時にとらえどころのない、すべすべしていながら逃げてしまう意味」
  (『第三の意味』)
   それはたいていの場合「あるはずのないものがある」「あるはずのものがない」という
  欠性的な、あるいは迂回的なかたちで示されている。
  (内田樹の研究室:「緋色の研究」の研究
   <http://blog.tatsuru.com/2010/08/20_0803.php>http://blog.tatsuru.com/2010/08/20_0803.php)

内田樹のブログに書かれていた「遡及的推理」に興味を覚え、
シャーロック・ホームズものの最初の一冊『緋色の研究』を読んでみることにした。
思いのほかずいぶんと面白く読めた。
「遡及的推理」についてふれられているのはそのほとんど最後の部分にある
ホームズとワトソンの会話である。
上記引用とだぶるが、メモがわりに引用しておくことにしたい(新潮文庫版)。

   こうした事件を解くにあたって大切なのは、過去にさかのぼって逆に推理しうるかど
  うかだ。これはきわめて有効な方法で、しかも習得しやすいことなんだが、世間じゃあ
  まり活用する人はない。日常生活の上では、未来へ推理を働かせることのほうが役に立
  つから、逆推理のほうは自然になおざりにされるんだね。総合的推理のできる人五十人
  にたいして、分析的推理のできる人はせいぜいひとりくらいのものだろう

   あるできごとを順序を追って話してゆくと、多くの人はその結果がどうなったかをい
  いあてるだろう。彼らは心のなかで、個々のできごとを総合してそこからある結果をへ
  てそういう結果を推測するのだ。
   しかし、ある一つの結果だけを与えられて、はたしてどんな段階をへてそういう結果
  にたち至ったかということを、論理的に推理できる人は、ほとんどいない。これを考え
  るのが僕のいう逆推理、すなわち分析的推理なんだ。
  (P.227-228)

たしかに、未来へ向かって結果を推測するほうが世間では「役に立つ」。
だから、まず結果があたえられてそこにいたるプロセスを推測する
というようなことはあまりおこなわれない。
結果がでたとしたらそれでよしであって、「役に立つ」という観点でいえば、
プロセスはある意味でどうでもよくなるわけである。

しかし、2+3はいくらかという問いによって5という答えを得るよりも、
答えが5になるためにはどういう計算方法があるかと問うことでしか
得られないような思考方法もあるということは知っておいたほうがいい。
シュタイナー学校での算数の教え方もそのようであるらしい。

もちろん、推理小説とは違って、
結果を導き出すための可能的方法とそのプロセスを
謎の解明ということでひとつだけにしぼりこまないということも
その思考方法では重要なことではないかと思う。
さまざまな可能性を考慮したうえで
ひとつの筋道だけが浮かび上がってくるとしたらそれもOKである。

自分の意識について意識してみる、
今の自分の意識に至るまでのプロセスを意識してみるというのも、
その一種でもあるかもしれない。
たしかに、多くの人はそういう「役に立たない」ことはしない。
多くの人にとって重要なのは、望む結果を出すということであって、
今の自分というアウトプットを遡って検討するということではないのだから。

そうすることで見いだされる
「あるはずのないものがある」
「あるはずのものがない」
だったり、
「うまく説明できないもの」
だったりするとき、
ほんとうはそこからはじめて、
なにかが展開しはじめるということもある。

そういうのは
自己イメージとして存在する「仮説に対する反証事例」に対する
「許容範囲内の誤差」ではなくて、
そこにこそ、さまざまな謎が隠されていることも大いにあり得るだろう。