風のトポスノート758
ありがとう
2010.8.19

 

 

   僕が言いたかったことは、人間たちの世界を成立させているのは、「ありがとう」
  という言葉を発する人間が存在するという原事実です。価値の生成はそれより前には
  遡ることができません。「ありがとう」という贈与に対する返礼の言葉、それだけが
  品物の価値を創造するのです。
   (中略)
   この後期資本主義社会の中で、めまぐるしく商品とサービスが行き交う市場経済の
  中で、この「なんだかわからないもの」の価値と有用性を先駆的に感知する感受性は、
  とことんすり減ってしまいました。(略)
   人間を人間たらしめている根本的な能力、それは「贈与を受けたと思いなす」力で
  す。この能力はたいせつに、組織的に育まなければならない。僕はそう思います。こ
  とあるごとに、「これは私宛ての贈り物だろうか?」と自問し、反対給付義務を覚え
  るような人間を作り出すこと、それはほとんど「類的な義務」だろうと僕は思います。
  (中略)
   これまで繰り返し書いてきたように、どのような事態も、それを「贈り物」だと考
  える人間の前では驚異的なものにはなりえません。みずからを被贈与者であると思い
  なす人間の前では、どのような「わけのわからない状況」も、そこから最大限の「価
  値」を引き出そうとする人間的努力を起動することができるからです。
   今遭遇している前代未聞の事態を、「自分宛の贈り物」だと思いなして、にこやか
  に、かつあふれるほどの好奇心を以てそれを迎え入れることのできる人間だけが、危
  機を生き延びることができる。現実から目をそらしたり、くよくよ後悔したり、「誰
  のせいだ」と他責的な言葉づかいで現状を語ったり、まだ起きていないことについて
  あれこれ取り越し苦労をしたりしている人間には、残念ながら、この激動の時期を生
  き延びるチャンスはあまりないと思います。
  (内田樹『街場のメディア論』光文社新書 2010年8月20日発行/P.183-208)

世界観の問題である。
そして、この世界/宇宙が、そして私が存在しているということを
どのようにとらえるのか。

内田樹がこの『街場のメディア論』で描いている世界観は、
「ありがとう」が血液のように流れている世界である。
「人間を人間たらしめている根本的な能力、
それは「贈与を受けたと思いなす」力」だという。
逆にいえば、「ありがとう」を発せない人間が増えると、
社会は立ち行かなくなってしまうということになる。

すべての人が自分は被害者だと思い、
「損」をしているという世界では、
「贈与を受けたと思いなす」力が展開していくことはない。

世界も、そして自分も含め、すべてが与えられているとする世界観と
世界から自分は与えられてないことを言い立て続ける世界観と。
前者では、与えられているがゆえに「ありがとう」を血液循環させることができるし、
宇宙/世界/社会はその力で展開していくことができるが、
後者では、循環していくのはある種の呪詛のようなものだけで、
健全な血流は望めず、あらゆる状況は不幸の原因になっていく。

シュタイナーが社会有機体三分節化で
精神における自由を基軸に、
経済における友愛、法における平等を説いたのも、
その世界観に近いところにあるように思える。
シュタイナーは、経済にせよ、精神活動にせよ、
いってみれば「贈り物」を与える余剰の部分を重要視しているとぼくは思っている。

「ことあるごとに、「これは私宛ての贈り物だろうか?」と自問し、
反対給付義務を覚えるような人間」。
つまり、「贈り物」を「与えられていること」に対して、「ありがとう」と思い、
それに対して「お返し」をしなくちゃいけないと思うこと。
問題は、なにかを「贈り物」だとみなすかそうでないか。
また、「与える」にしても「対価」を要求するような形であるかどうか。
もちろん経済活動における「対価」は基本的に重要であるが、
特に精神活動かそれに類することに関して、
それを単純に「対価」としてとらえるということは、
そこにあるはずの、なくてはならない「贈り物」である要素を
スポイルしてしまうことになりはしまいか。

「贈り物」は「奪う」ことも「盗む」ことも、
ひいていえば「買う」ことさえできないだろう。
そうすることでそれは「贈り物」であることをやめてしまうから。
「世界」も金銭化することで「贈り物」であることをやめてしまう。
しかし、空気は水は食べ物は「贈り物」であることをやめたとき、
その「ありがとう」の循環をなくしてしまうことになる。
人の愛も、金銭化されることで、循環することをやめる。
そして、宇宙は生きつつづけていくことをやめてしまうだろう。