風のトポスノート757
お金について
2010.8.16

 

 

ぼくのよく見ているサイトの二つ、
「ほぼ日」と「千夜千冊」が
このところ「お金」についてとりあげている。
(2010年8月16日現在、継続中)

「ベーシック・インカム」の議論も、その是非はともかく、
その「お金」について考えるきっかけとしては重要だともいえるが、
この2つのサイトの特集・テーマ化は、
それなりにいろんな目線で「お金」について
考えるきっかけになりそうなので、メモがてら。

「ほぼ日」は「12周年記念」での「お金の特集」。

・「お金のことをあえて」
<http://www.1101.com/okane/introduction/index.html>http://www.1101.com/okane/introduction/index.html
・赤瀬川原平さんの、とても正直な「お金」の話
<http://www.1101.com/okane/akasegawa/index.html>http://www.1101.com/okane/akasegawa/index.html
・矢沢永吉×糸井重里 素人社長会議
<http://www.1101.com/okane/event/index.html>http://www.1101.com/okane/event/index.html
・「いろどり」の横石知二さんから、グッドニュース。
 「葉っぱをお金に換えた人」
<http://www.1101.com/okane/yokoishi/index.html>http://www.1101.com/okane/yokoishi/index.html
・ルーディー和子さんとお金と性と消費の話
<http://www.1101.com/okane/rudy/index.html>http://www.1101.com/okane/rudy/index.html
・みうらじゅんに訊け!「お金篇」
<http://www.1101.com/okane/jun/index.html>http://www.1101.com/okane/jun/index.html
・原田泳幸さんと、価値について。
<http://www.1101.com/okane/harada/index.html>http://www.1101.com/okane/harada/index.html

「千夜千冊」は、2尾10年6月21日から
ずっと「お金」についての著作を取り上げていて、
最新のものが、エンデの「モモ」になっている。

・1367夜 ニーアル・ファーガソン『マネーの歴史』
<http://www.honza.jp/senya/1367>http://www.honza.jp/senya/1367
・1368夜 ジョナサン・ウィリアムズ『図説 お金の歴史全書』
<http://www.honza.jp/senya/1368>http://www.honza.jp/senya/1368
・1369夜 ゲオルグ・ジンメル『貨幣の哲学』
<http://www.honza.jp/senya/1369>http://www.honza.jp/senya/1369
・1370夜 今村仁司『貨幣とは何だろうか』
<http://www.honza.jp/senya/1370>http://www.honza.jp/senya/1370
・1371夜 吉沢英成『貨幣と象徴』
<http://www.honza.jp/senya/1371>http://www.honza.jp/senya/1371
・1372夜 ジョン・メイナード・ケインズ『貨幣論(I・II)』
<http://www.honza.jp/senya/1372>http://www.honza.jp/senya/1372
・1373夜 ロバート・スキデルスキー『なにがケインズを復活させたのか?』
<http://www.honza.jp/senya/1373>http://www.honza.jp/senya/1373
・1374夜 ハンス・クリストフ・ビンスヴァンガー『金と魔術』
<http://www.honza.jp/senya/134>http://www.honza.jp/senya/134
・1375夜 仲正昌樹『貨幣空間』
<http://www.honza.jp/senya/1375>http://www.honza.jp/senya/1375
・1376夜 島田雅彦『悪貨』
<http://www.honza.jp/senya/1376>http://www.honza.jp/senya/1376
・1377夜 ミヒャエル・エンデ『モモ』
<http://www.honza.jp/senya/1377>http://www.honza.jp/senya/1377

現代が閉塞状況にある大きな一つが
この「お金」の問題にあるということは間違いなさそうである。
「環境問題」にしても、この「お金」を抜きにしては考えにくい。

ともすれば、「お金なんか関係ない」とうそぶいたりもするけれど、
「関係ない」といえばいうほど、「お金」との「関係」に
縛られている現状を憤っていることにもなるし、
「すべてがお金だ」と公言する人にしても、
その人が「お金」に縛られていないとはいえないだろうし、
たとえば「死」の問題を「お金」で解決できるとは信じてはいないだろう。
(たとえ「お金」による「延命」のための措置はある程度可能だろうが)

今回の「ノート」でメモしておこうと思ったのは、
松岡正剛がエンデの『モモ』をとりあげて
ようやく次のような視点を提示していたからである。

   エンデは長らく「老化する紙幣」や「時計がついた貨幣」を夢想しつづけたのだ。
   それをシルヴィオ・ゲゼルやルドルフ・シュタイナー(33夜)に学んでいたのだ。
   これ、「エイジング・マネー」とは何かという、とんでもなく大きな問題である。

しかし、「お金」という「価値」が
どのように私たちの社会で機能しているのかを理解するのは、
考えれば考えるほどにむずかしく、
「お金なんか幻想なんだ」と言ってしまいたくもなるのだけれど、
「幻想」だとしても、その「幻想」はあまねくかつ巨大に世界を覆っていて、
そこから逃れることはむずかしそうだ。

お金が「老化」する、「時計がついている」ということからすれば、
わかりやすく「お金は社会の血液だ」とでも安易に言ってしまうこともできるだろうし、
お金がお金を生み出すという仕掛けを癌細胞の生成のようにとらえることもできるだろうが、
ともあれ、お金にまつわるひとつの大きな問題は
それを貯めたまま流通させないことや
お金そのものが商品化されることでお金の成り立ちそのものに
お金のメタ回路のようなものが幾層にもできていってしまうところにあるようである。

ベーシック・インカムについていえば、
社会の血液なのだから、だれにでもある程度血液をシェアしあって
社会有機体の血液循環を滞りなくさせるという意味では重要な施策かもしれないのだけれど、
そこで重要になるのは、社会有機体を成立させている人間の営為そのものが
ひどく倦怠感におそわれてしまうのではないかというところもあるようにも思う。

シュタイナーの社会有機体三分節化の考え方の骨子には、
精神における自由、法における平等、経済における友愛というのがあって、
おそらくその中核にあるのが、精神における自由なのだと思われるのだけれど、
その健全な社会有機体において、精神における自由を求めている人が
いったいどれほど存在するかを、現状において問いかけてみる必要がありそうである。

シュタイナーは、経済活動によって生まれる余剰は
「精神活動」に寄付されるのが健全な社会有機体であるように考えていたように
シュタイナーの社会論を読んでいると思うのだけれど、
そして、ぼく自身としても「そうであるべきだ」とさえ思うのだけれど、
社会有機体の成熟、つまりは人間のある種のトータルな成熟が基本と成っている社会でなければ、
「お金」は必ずしも「精神活動」へと向かうとはかぎらないように思う。

少なくとも、現代において、「お金」が「精神活動」に向かう割合は大きくはない。
おそらく「お金」の余剰が「精神活動」に向かうということこそが、
ある意味、四大霊の解放のように、
「お金の霊化」「お金の解放」になるようにも思うのだけれど、
実際のところは、まず「お金」はさまざまな「欲望」の手段として機能し、
「欲望」はまたあらたな「欲望」を生み出すことで、また「お金」が求められていく。
そして「お金」を生み出すための手段が、さまざまに「考案」されていく。
「マネー・ゲーム」というのも、そこで生み出されてくる「欲望」の徒花だろう。
しかもそこでは人間のトータルな成熟が必要とされたりはしない。
賭け事にともなうある種のドラッグ的な興奮と
それを裏付けようとする知的遊戯があればよい。

ともあれ、「お金」に対してどのような態度をとるか。
それを自分なりに考えていくのは必要不可欠なことだろう。
ぼく自身は、借金をせずになんとか生活できる程度の収入と貯蓄のための
最低限の労働を社会のルールに反さない方法で行い、
そこから精神活動に類することにできるだけ消費し、
それ以外のお金に関する関与をできるだけしないようにする・・・
といったくらいのきわめて素朴な発想に基づいた態度しか持っていないけれど、
視点としては、折りにふれさまざまに考えていければと思っている。
上記の「ほぼ日」と「千夜千冊」などもそのひとつとして。