風のトポスノート756
証明とは何か
2010.8.6

   『数学という科学の存在自体が、解けない矛盾のように思われる』
   今から百年以上前に、アンリ・ポアンカレはそう書いたーーポアンカレは、
  数学のあらゆる分野に優れていたがゆえに、数学者のあいだでは「最後の万能
  人」として知られている人である。数学そのものが矛盾のように思われるのは
  なぜかを、ポアンカレは次のように説明した。もしも数学で扱われる対象が、
  人の頭の中だけに閉じ込められた空想にすぎないのなら、「あのまったき厳密
  性、誰一人否定する者のいないあの厳密性は、いったいどこから生じるのだろ
  うか?」また、自然科学における実験の地位に、形式論理学の規則がすっかり
  取って代わったのなら、「数学は、壮大な同義反復に帰着するのではないだろ
  うか?」そして彼はこう問うた。「もしそうだとすれば、これほど多くの書物
  を埋め尽くしている定理のすべては、〝AはAである〟ということを回りくど
  く延べているにすぎないと認めることになるのだろうか?」
   ポアンカレはこれに続けて、数学は個別的なことからはじめて一般的なこと
  へと論証を進めるから、科学なのだと述べた。頭の中で十分に厳密な実験ので
  きる数学者は、ほかの数学者たちと共有する空想世界の中で、自分が今考えて
  いる対象だけでなく、それ以外のものまでも支配する法則を導くことができる。
  つまりその数学者は、単に「AはAである」ことを証明するだけでなく、ある
  ひとつのAがまぎれもなく〝A〟という集団のメンバーであるために不可欠な
  要件は何なのか、また〝A〟という集団の他のメンバーはどこに行けば見つか
  るのか、さらには〝A〟のメンバーはどうすれば構成できるのかまでも説明す
  ることができるのだ。頭の中だけでこれほどのことを成し遂げるには、どれほ
  ど研ぎ澄まされた集中力が必要なことだろう。数学者とは、ものごとを徹底的
  に区別し、それらを整理し、体系づける人たちーーいわば偉大なる分類学者な
  のである。
  (マーシャ・ガッセン『完全なる証明/100万ドルを拒否した天才数学者』
   文藝春秋 2009.11.15発行/P.187-188)

マーシャ・ガッセン『完全なる証明』は、
世紀の難問といわれた「ポアンカレ予想」を証明したにもかかわらず、
その100万ドルの賞金がかけられていたフィールズ賞の受賞も拒否し、
数学界からも世間からも連絡を絶ったペレルマンについてのルポルタージュである。
本人への取材はできないため、関係者からの話をもとに構成されているが、
ペレルマンという、ほとんど数学の世界だけに生きてきた人物の
ふつうから見れば特異な人格が、読み進むにつれて、
不思議な共感を持って迫ってくるリアリティがある。

ぼくは「ポアンカレ予想」という数学の難問がいったい何なのかさえ、
ほとんどわからないほどに今や数学に無知ではあるのだけれど、
学校でのほんの一時期、数学の世界ほど信頼のおける世界は見いだせなかった。
そんな幸福なときを持ったことがある(それ以外の世界が苦しいというのもあったが)。
なにしろ、「誰一人否定する者のいないあの厳密性」のもとに、
答えが出る、証明ができるのである。
こんな幸福なことがあるだろうか。

しかしあるときふと疑問が浮かびそれがふくれあがっていった。
「この証明、答えというのはいったい何なのだろうか」と。
まさに「AはAである」という同語反復のようなことを繰り返すことが
どういう意味をもつのだろうかという問いで、
そしてそうした「数学的世界」というのはいったい何なのだろうかという問いである。
(稚拙なレベルでしかなかったものの)自分勝手な妄想ではなく、
たしかに答えがでるのである。
であるならば、何もぼくが解く必要がどこにあるのだろう。
別に解いたっていいし、解けるとうれしいし、
そして答えに至る道は決してひとつでもないときもあるのだけれど、
その営為そのものがいったい何なのかが理解できなくなってしまったのである。
いやむしろ、ある種の徒労感に襲われたといってもいい。
ぼくは「その世界の外」に出たいと半ば無意識に切望したのかもしれない。

ある意味、体系内の閉じた世界は子宮、母胎のようなものだ。
そこにいれば自他未分の幸福な世界、幸福であるとさえ思う必要のない世界である。
そういう意味で数学の世界というのは、きわめて男性的な論理世界のように見えて、
その実、ぐるりと360度回転した母性的な世界なのかもしれない。
もちろん、閉じた数学的体系はおそらく閉じられていないかに見える世界と
深い深いところで、というか宇宙的な統合世界においては通底しているはずである。
しかし、こうして地上世界に存在するということは、
答えのでない血を流さざるをえない世界ではないか、と
血を流すことを恐れていた(今も恐れている)ぼくにして、そう思った。
実際の世界をおそらくは嫌悪していたがゆえに、
その嫌悪のなかに身をおかざるをえないと思ったということかもしれない。

「証明」というのは、体系的に閉じていないと成立しないわけだが、
(『人間の証明』というのがあったけれど)
体系的に閉じないところで、矛盾に矛盾を重ねたところに生まれる
統合された宇宙の体系での「証明」は可能だろうか。
おそらくそうした「証明」には、
「ものごとを徹底的に区別し、それらを整理し、体系づける」営為と同時に
それを否定的に統合し得るような開かれた体系として世界を理解する必要性がある。

その上であらためて「数」の神秘的な魅力は変わらずにある。
ちょうど、ルドルフ・タシュナー『数の魔力/数秘術から量子論まで』
(岩波書店/2010.5.28発行)というとても魅力的な本が訳されている。
(最初見たときに、ルドルフ・タシュナーという著者名が
ルドルフ・シュタイナーに見えてしまって手にとったのだけれど・・・)

この本の第一章はこうはじまっている。
「ありとあらゆるもの、われわれ自身を含めた全宇宙は数であるーー
こんな考えに、サモスのピタゴラスがどのようにしてたどりついたのかは、誰も知らない」

そして、ピタゴラスー数と象徴、バッハー数と音楽、ホフマンスタールー数と時間、
デカルトー数と空間、ライプニッツー数と論理、ラプラスー数と政治、
ボーアー数と物質、パスカルー数と精神というふうに、
「数」のさまざまな側面が興味深く描かれている。

「数」は「証明」するためだけにあるわけではない。
「数」はそれを通じて世界を理解するためのものとしてとらえることもできる。
その「数」のもつシンボリックな意味を「神話」として壮大にとらえている著書に、
梅本龍夫『数の神話ー永遠の円環を巡る英雄の旅』
(コスモスライブラリー/2009.6発行)があり、
これもあわせて読むと「数」の世界は、私たちの魂の世界も含め、
宇宙大に多彩に広がっていくことだろう。

なぜ人は「証明」しようとするのだろうか。
「AはAである」ということの意味は何だろうか。
そうした営為そのものが大いなる矛盾のようにも思われるのだが、
その矛盾そのものこそが「宇宙」であり「存在」であることの意味なのかもしれない。
だから、いまここ、あるがままであることは、
いまここ、あるがままであることに幻影的にせよ自足することができず、
それそのものの「証明」にむかって「遊戯」をはじめるのだろう。
「証明」する必要のないことをあえて「証明」しようとする運動として・・・。