風のトポスノート754
シャドーのエネルギーについて
2010.8.4

   人間の総合的な成長を実現するための枠組みとして、「ボディ」「マインド」
  「スピリット」という概念が重要であることは、これまでにも頻繁に言われて
  きたことかもしれません。しかし、ILPは「シャドー」を総合的な実践の核
  となる構成要素としてくわえます。「ボディ」「マインド」「スピリット」
  「シャドー」は実践において注目されるべき最低限必要な領域なのです。それ
  を怠るとき(…)実践活動は持続性と効果を失うことになります。(・・・)
   「シャドー」(shadow)とは、心(psyche)の暗部を示します。これは、わ
  れわれが自分自身から断裁し排除し拒絶し隠蔽し、他者に投影している自己の
  側面です。あるいは、自己を構成する要素として放棄したあらゆる心の側面を意
  味します。心理療法においては、シャドーは「抑圧された無意識」を表します。
   私たちは自らのシャドーを意識していません。しかし、そのことは、シャドー
  が私たちに全く影響を及ぼさないということではありません。むしろ、それは歪
  んだ不健康なかたちで表現されることになるのです。これらは、一般的には「神
  経症」(neurosisi)と呼ばれます。シャドー・ワーク、およびシャドー・モジュ
  ールの目的は、抑圧を解除して、シャドーを統合することです。これにより、私
  たちの心理的な健康と明晰さを高めることが可能となります。(・・・)
   シャドー・ワークの最も重要な効果は、それが、自己の内部で葛藤を生み出す
  ために浪費されていたエネルギーを解放することにあります。シャドーを維持す
  ることは実のところたいへんなことです!自身の望ましくない側面を常に隠蔽し
  続けるためには、膨大なエネルギーを傾注することが必要になります。シャドー・
  ワークは、そうしたエネルギーを解放することになるのです。そして私たちは、
  それを自己の成長と変容のために振り向けることができるのです。
  (ケン・ウィルバーほか『実践インテグラル・ライフ/自己成長の設計図』
   春秋社 2010.5.31発行/P.150 *ILP:Integral Life Praxis)

なぜシャドーがあるのかといえば、
見たくないものを見たくない、見たくないことさえ意識したくない、からだ。
だから人が総合的に成長をめざすとすれば、
そうした自分ではないと思っている部分を自分に統合していく必要がある。

しかし、シャドーがあるからこそ、
やみくもにであったとしてもエネルギッシュに活動できるという側面も無視できないように思える。
馬の前に(決して食べられないような)ニンジンをぶら下げたようなものである。
さらにいえば、シャドーがあるからこそ世界があるということもできるだろう。
宇宙空間において光が「見える」のは、光がなにかに当たって反射するからであって、
反射するものがなければ光そのものが「見えない」ように、
世界は影をつくることで「見える」ようになるということもいえるのではないか。

世界は本来「一(oneness)」であるとすると、
それが(仮象であるにせよ)現象化している(ように見える)のは、
影というものをつくり得るような存在様態を現象化させ、
そこで光と影が戯れるように「見えている」「見せられている」ということだろう。
そのように、世界ではあらゆるものは
対極にある二元の戯れによって現象化されているように「見える」。
その意味では、世界そのものがそうした二元が累乗化している「遊戯」にほかならない。

それはともかく、私たちはシャドーによって生かされているという側面が強い。
シャドーを統合していくというプロセスが私たちひとりひとりの成長につながるとしても
(ここで「人の成長とはいったい何だろう」という疑問も必然的に出てくるのだけれど、
ここではそれはあえて問わないことにする)
とにもかくにも私たちが生きていけるのは、
なんらかのかたちで「シャドー」による葛藤があるからのように見えてくる。
シャドーを維持するには膨大なエネルギーが必要になるが、
その膨大なエネルギーによって世界は生成しているようなところがあるのだ。

おそらくそのシャドーというのは、
個人レベルだけではなく、人が集合的に生み出している社会や共同体などにも存在していて、
ある意味で、そのシャドーがあるからこそ、その組織体、集合体が
求心力を持ち得ているというところも大きいように見える。
そうでないと、それらは「見えない」のだ。
だから、「私」が「私たち」になるとき、その「仮想敵」をつくることで
「私たち」は異様なまでの求心力をもったりもする。
それはそうした外的に投影されたシャドーだけではなく、
ある種、集団を閉じたものにすることによる内的なシャドーとしても存在する。

閉じることによるシャドーというのは、
おそらく瞑想的なありようにも存在するだろう。
瞑想の多くがある種の内的な力を持ち得るためには、
その「開かれ」と同時に「閉じられ」も必要とする。
その内的な開かれ方は、自分が開きたいエリアにおける開かれであって、
見たくないもの、見たくないことさえ意識したくないエリアは
むしろそれによって独善的に閉じられてしまうようなところがあるからだ。

従って、シャドーを維持するために使っている私たちのエネルギーが
実際に使われている現場においてそれを意識することのほうが有効だろう。
いかに自分がシャドーによって精力的に(ネガティブにせよ)
活動しているかを見ることは、ちょっとした衝撃でもあるかもしれない。
しかもそのシャドーなしでは生きていられないように感じられたりもする。
しかしおそらくそのシャドーをそのままにしておくこともできないし、
そこで使っているエネルギーをスポイルしないほうがいいところもある。
要は、そのエネルギーをどこに向かって方向づけるかということだろう。
人を病的にさえしてしまいかねないエネルギーを別の方向に向けること、
またはそのTPOを変えてみること。
それはそんなに容易いことでもないのはもちろんだが、
少なくとも幻影に踊っている自分の姿に少しでも気づけば、
別の踊り方を考えたほうが美しいのではないかということである。
そしてそうした変容にはおそらく完成品はなく無限のプロセスを内包している。