風のトポスノート753
報酬系
2010.7.27

   報酬系は犬の訓練士のようなものです。
   犬が自ら意欲を持って何かを学んで行動を起こすように辛抱づよく訓練するのです。
  もちろん犬だって、「3回まわってワン」をすればご褒美としてビーフジャーキーが
  もらえるから意欲を持ってトリックを学ぼうとするわけです。
   報酬系神経回路は1つしかないわけではありませんが、最も力強い報酬系は、脳の
  真ん中で脳幹の上にあ腹側被蓋野から始まります。ここは、満たすべきニーズに関す
  る情報を受け取るところであり、また、ドーパミン生成細胞がぎっしりつまっている
  ところでもあります。たとえば、食欲を満たしたいという情報を受け取ると、情報の
  メッセンジャーとなるドーパミンを生成して(…)、それを側坐核や前頭葉に送りま
  す。情報を受け取った側坐核は会館を得ようとして運動機能を活性化して行動を促す
  のです。また(…)前頭葉では、報酬の程度を予測したり、場合によって、側坐核の
  活動を抑制しようと試みたりもします。
   報酬系があるから人間は饑餓すれすれの長い年月を耐え忍び、寒い氷河期でも食べ
  物を探すという行動を怠らず、私たちに遺伝子を残す営みを続けることができたので
  す。
  (ルディー和子『売り方は類人猿が知っている』日経プレミアシリーズ065
   日本経済新聞出版社 2009.12.8発行/P194-195)

「報酬」。
つまり、欲しいもの、手に入れたいもの。
その人が何を欲しいと思っているのかが、
その人の現在をよく表しているといえるのではないか。

まず生きるためにどうしても必要なものや
それに関連したことは「報酬」の基本となる。
息をしないと生きていけないし、食べないと生きていけない。
そうしたことが最低限できて「衣食足りて礼節を知る」となる。
とはいえ、人間の欲望は「衣食足りて」→「礼節を知る」、
というふうに単純にはできてはいない。
生きていくための最低限の「足りる」だけでは「足りない」のである。
そこで「足るを知る」ということが倫理的な徳目になったりもする。

その「足る」という基準はひとさまざまで、
たとえば「権力「や「名声」などについて、
「足る」ことを知らない人の例を挙げるのはむずかしくない。
また、現在の「消費社会」での商品への欲望は「足る」ことを知らない。
「足る」ことを知らないことを基礎にしてすべてがまわっている。
もし「足る」ことをみんなが知ってしまったら、商品の多くは売れなくなる。
商品をつくる人も売る人も買う人も、
「3回まわってワン」することを自動的に学習する意欲によって行動している。
そしてその「3回まわってワン」にあたるものが
その人の現在をよく表しているといえる。
ある人から見れば、「3回まわってワン」が馬鹿げて見えたとしても、
その人が選択している「3回まわってワン」もまた
別の人から見れば、馬鹿げて見える可能性も大いにある。

だから、自分が選択している「3回まわってワン」が
馬鹿げたことではないように祈りながら、
人は流行に次から次に飛びついていく。
それを信じ込んでいるかどうかは別として、それは基本的に集合的、迎合的である。
とはいえ、流行的なものでないからといって、
それが「3回まわってワン」ではないとはいえないだろう。
自分は普遍的な価値を重要視していると思っていても、
それそのものがその人にとっては「3回まわってワン」なのだ。
だから、禅において「仏陀に逢ったら仏陀を殺せ」といったりもするのは、
そこでは「仏陀」が「3回まわってワン」そのものになってしまうからだ。

だから、「3回まわってワン」そのものを蔑視する必要はない。
実際、それがどんなに稚拙なことに見えようとも、
それがなければ、私たちが生き延びていくことのできないものは数限りなくある。
悟りや聖なるものを求めるがゆえに禁欲を貫くことを事とする聖人が尊崇されるとしても、
もしすべての人がそうした聖人になってしまったとき
人類社会は100年も立たないうちに終焉を迎えてしまう。
もっとも、そうなることでひょっとしたら宇宙は飛躍的な進化を遂げるのかもしれないが・・・。

ともあれ、必要なのは
さまざまな「3回まわってワン」を理解するということと
できれば、自分がどんな「3回まわってワン」を必要としているのかについて
自覚的であることなのだろう。
そして、かつての自分が依存していた「3回まわってワン」もあり、
すでにあまり必要しなくなっている「3回まわってワン」もあり、
また今自分が求めてやまない「3回まわってワン」もある、というように、
自分のなかで「足りる」ことの可能なものと
まだ「足り」ていないものについて
どれだけの視点を持ち得るかということなのだろう。
そして、できうれば、自分のそうした現状について、
人に知られたとしても恥じないようでありたいと思う。
そして、たとえある人が生死をかけて「足り」ていないことを叫んでいることが
自分から見てほんとうにどうでもいいようなことであったとしても、
それについて(共感する必要はないだろうが)理解し得る自分でありたいと思う。