井の中の蛙、大海を知らず、されど。 
             されど? 
             空の青さを知る。 
             やねんて、すごい励まし。 
             でも空の青さは井の中から出ても変わらず見えるわけで。 
            青さだけを知っていることと、大海の広さと空の青さを知っ 
            ていること、どっちがいいかなんてそら場合によるよな。 
            (川上未映子『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』 
             講談社文庫/2009.11.13.発行/P.120) 
              
          歳をとればとるほど、 
          自分はなんにも知らずに生きてるのだなと思うことが増えていく。 
          自分のいる井戸のことに気づけば 
          人を井の中の蛙といって笑うことなどできようもない。 
          自分の知っていること、自分でできることなどほんの芥子粒のようなもの。 
          しかし、この引用にある「されど」というのはなかなか。 
            井戸から青い空が見える、空が青いことに気づくというのもそうだが、 
            井戸をずっとずっと深くおりていけば 
            昼間でも空の星が見えるという。 
            (実際に降りて見てないので「という」しかないけれど) 
          見えているのに見ていない。 
            そのことに気づくことができるというのは 
            それはそれでたいしたことだと思うようになって久しい。 
          若い頃はずいぶん知ったかぶりをしたものだし、 
            わかったふり、見えているふりをするだけで 
            ずいぶん消耗していたような気がする。 
            だから、まわりで、「おれは、わたしは、馬鹿じゃない」と 
            息巻いているひとのことを笑えたりはしない。 
            そうしなければどうしようもないほどに 
            お母さんガエルはおなかをふくらませないわけにはいかないのだから。 
          見えていないもののことを考え始めることは 
            井の中にいたとしても空を見上げてみることだ。 
            水のなかにいる魚が水に気づけないでいるとしたら 
            それはぼくがぼくのいるいまここに気づけないでいるようなものだ。 
          しかしぼくはいまどこにいるのだろうとあまり考えすぎると 
            日々の「火中」のなかで窒息してしまいかねないところもあってむずかしい。 
            空が青いのをわかっていても 
            それを見ないふりしていなければならないこともある。 
        とかくこの世は生きにくい。  |