世界の多数の人々が「自分は正解をもっている」「自分の方法こそが最善のものである」 
            「自分こそが真実を理解している」と考えています。そんな人をあなたはきっと知っている 
            ことでしょう。もちろん。彼らが100パーセント正しいということはないでしょう。一人 
            ひとりの主張は相互に食い違っているのですから。しかし、その正反対も事実ではありませ 
            ん。常に100パーセント間違うことのできるほどに頭のいい人はいないのです……。 
             むしろ、重要なことは、すべての人がある視点に立脚して世界を認識しているということ 
            です。そして、視点とは本質的に限定的・部分的なものです。ですから、あなたがよりたく 
            さんの視点を考えることができるならば、あなたはより良く対象を理解できるのです(その 
            対象は、自分自身であるかもしれませんし、他者との関係であるかもしれませんし、あるい 
            は、世界の状況であるかもしれません)。逆に、考える視点の数を限定すればするほど、あ 
            なたは視野を限定することがもたらす誤解・誤謬を犯しやすくなります。こうした誤解は、 
            重要な視点を無視することにより、「現実」を狭めるときに生じるものです。そうした視野 
            狭窄は誤解を招く結論を導きだします。 
            (ケン・ウィルバーほか『実践インテグラル・ライフ/自己成長の設計図』 
             春秋社 2010.5.31発行/P.155-156) 
          どんなことからでも、どんな人からでも学ぶことができる。 
            自分の持っている視点と違っていれば違っているほどに、学べる可能性は大きい。 
          そこにある障害は、 
            ひとつには、違いすぎることで学ぶために必要な、いわばソフトウェアを 
            こちらがもっていないために学びに至らないということがあるだろう。 
          相手がとてつもなく意識が高い場合なども、こちらはとりつく島もなかったりする。 
            たぶん相手とこちらとの基本的なOSがあまりに違っているために 
            ソフトウェアがあったとしても使えない状態であるということも大いにあり得る。 
          また、違うことでネガティブな感情が刺激されて、 
            最初から学ぶという姿勢をとることができないということもあるだろう。 
            これは学ぶ可能性があるにもかかわらずもっともエラーを起こすことの多いケースである。 
          とはいえ、ひょっとしたら、ネガティブな感情が刺激されるというのは、 
            先のような、意識のOSが違うほどの差などほとんどなくて、 
            相手とあまりに近すぎるために、いろんなソフトウェアがそこに働いてしまい、 
            混乱しやすくなっているということもあるのかもしれない。 
            要は、相手と自分とはそんなに変わらないにもかかわらず、変わらないからこそ、 
            ちょっとした違いを認めるかどうかがそれほどに重大な問題になってしまうのだろう。 
            赤ん坊が悪さをしたところで感情を荒立てたりする人は少ないだろうけれど、 
            ちょっとした交通マナーが悪いとかいうだけで運転中はむっとしたりもするのだ。 
            同じような車で同じ道を走っているような似たもの同士だからこそ感情的になることができる。 
          こうして「世界」に肉体を持って生まれてきているということの意味を考えてみると 
            このふたつの方向性があるのだろうという気がしている。 
            ひとつには、霊的な世界ではいっしょにいられないほどの存在と 
            肉体的に同時代人としてさえ存在できるという可能性。 
            もうひとつは、いろんな意味で自分の鏡のようになっていてくれる存在と直面できるので、 
          そこで「人の振り見て我が振り直せ」的に学ぶ機会を豊富に与えられるという可能性である。 
          どちらもとても困難なことではあるけれど、 
            どちらも豊かな可能性をもっている。 
          あとは学ぼうとするかそうしないかだけのこと。  |