風のトポスノート749
Stay hungry. Stay foolish.
2010.6.13

「Stay hungry. Stay foolish.」という言葉は、
アップル社を創設したスティーブ・ジョブズが、
2005年、スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチの最後を
締めくくった言葉のなかにある。
(このスピーチは、i-Tuneで無料ダウンロードでき、
翻訳付きの映像もYouTubeで見ることができる)

hungryであるためには、
どうしてもやりたいことがなくてはならない。
foolishであるためには、
世の常識に必要以上にとらわれてはならない。

スティーブ・ジョブズは、
親がなけなしの金を使うのに我慢できなくなり
大学を中退してしまうが、
それは「最良の選択」だったという。

アップル社を創設したが
自分が雇った経営陣に会社を追われることになったことを
「最良の出来事」だったという。

2005年にすい臓ガンになり、
余命3ヶ月から6ヶ月と宣告されるが、
奇跡的に回復し、
「死」に近づくことで
人生で大事なものを確信することになったという。

スティーブ・ジョブズのスピーチは
この3つの話を通じて、
「Stay hungry. Stay foolish.」というメッセージを送っている。
つまり、一見foolishに見えるようなことだったとしても、
自分がほんとうにやりたいことに向かっている(hungry)のだとしたら
それは決して無意味なことではないということなのだろう。

自分はいまhungryでありつづけているか。
foolishだといわれることを恐れてはいないか。
そうしたことを生涯にわたって自問できるようでありたいと思う。
自問するということは、自らを見る目線を失わないということだろう。

たとえば、ケン・ウィルバーの示唆している
「インテグラル・ライフ」という「自己成長」のマップでは、
I(個・内面)、We(集合・内面)・It(個・外面)、Its(集合・外面)という
4つの領域における「自己」という統合的な視点を重視している。
I(個・内面)はいうまでもなく自分の思考、感情、意志などの内的な側面、
We(集合・内面)というのは、自分の関係性や文化などの共有化された側面、
It(個・外面)というのは、自分の物理的・身体的な側面、
Its(集合・外面)というのは、外的環境や社会制度的な側面。
そうした4つの側面のすべてに目を向ける必要があるという。

そしてここからが重要なことでもあるのだけれど、
それぞれの領域におけるみずからの「シャドー」についても
目を向けるということが重要になる。
そうでなければ、ともすれば自分の隠蔽している部分ゆえに
総体として欠損してしまうからである。
つまり、自覚的なhungryでありfoolishなのではなく、
たんなるものほしげな、自分の欲望を単に肯定しているだけのhungryであり、
たんに何も考えないままでいるfoolishになってしまう。

さて、この時期(毎年6月)になると
「ほぼ日」が周年のあれこれを唱いはじめる、ので
思い出すことになるのだけれど、それが今年12周年。
そのほぼ一年前に開いたので、このトポスも13周年ということになる。
(長さだけはそこそこになる・・・けれど、最近はずいぶんさぼりがちである)
世はブログどころかTwitterばやり・・・というように
ずいぶんいろんな形式が次から次へと登場するのだけれど、
かなり早くネットをはじめたわりには相変わらずのトポスで変わりばえもしない。

最近あまり書かなくなっているのはどうしてかなと自分でも思うこともあるのだけれど、
書くことそのものについてはサボリというのももちろんあるものの、
実際はこの数年来、以前では考えられなかったほど
自分なりにいろんなことに目を向け始めているということもある。
しかも、できるかぎり何も知らないでいる状態に近いところから
それらに目を向けてみようとしていたりるする。
学者が知識を積み上げることでそれらに縛られるのとは逆の態度。

もちろん、知識は必要でそれを否定するのは馬鹿げているのだけれど、
たとえばある数学の公式があってその公式がどこからでききているのかを
常に最初から導き出せるようになっているかどうかを自問しているかどうか。
さらにはなぜそういう数学の問題が出てきているのかにさかのぼって
自問できているのかどうかということ。

そうすることができていてはじめて、
さきの4つの領域の統合化やシャドーへの視線が可能になってくるのだろうと思うのだが、
そうすることにはずいぶん時間がかかるのは確かで、
そうしたなかには、自分の日々の生活のリズムや身体的な状態、
自分のできること、できないこと、
できないと思っていること、できると思っていること、などなどをはじめ、
そうしたことをつうじて、自分が外的な関係性のなかで、
どうした在り方を現在とっているのか、またそこに見えていないかもしれない、
内的、外的な「シャドー」はどうかなどなど、についても
可能な部分視線を向けていく必要がある。

そしてそうしたことにじっくりと瞑想的に取り組むというのではなく、
昨今の社会経済情勢のなかでますます慌ただしくなってきている状態のなかで
常になにがしかの「渦中」にありながら、「渦中」にあるがゆえに可能な
なにがしかのスタンスをとっていくこと。

「渦中」といえば「火中」という同音を思い浮かべてしまうが、
「火中の栗を拾う」という寓話があるのを思い出した。
調べてみると、
猫が猿におだてられて囲炉裏のなかの熱い栗を拾って火傷し
肝心な栗は猿が食べてしまうという
イソップ物語をもとにラ・フォンテーヌがつくった寓話だそうだが、
そうした馬鹿げた行為をあえてするということの必要なこともあるように思う。
「渦中」にあるがゆえに可能になるfoolishで
しかもそれを自分なりに高次のfoolishにしていくこともできるだろうということである。
「火中」にいなければ得られないものがそこにはあるということ。
そうでなければ、自分のさまざまな領域におけるシャドーも
否応ないかたちでは見えてこない。

そんなこんなで、13周年を機に、少しばかりそこらへんをあれこれ
あらためて考えてみながら、サボリすぎないように、
しかも奇をてらったり、賢げに見せかけたりしないようにしながら、
坦々とやっていければと思っている。